【土佐防災日記~東北から移住して】(2)「命守るのは想像力」四万十町防災職員、中野未歩





平成23年東日本大震災の被災地でボランティアに参加した中野さん(中央)

 来年、平成23年に起きた東日本大震災から10年を迎える。被災地は復興途上だが、当時中高生だった若者たちは社会人として活躍し始めている。そんな若者のひとりである高知県四万十町役場の防災担当職員、中野未歩さん(27)は故郷の宮城県から移住し、次の大震災と懸念されている南海トラフ地震への備えに尽力する異色の存在だ。連載「土佐防災日記」で「教訓を生かしたい」との思いをつづる。

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 平成23年3月11日、仙台市内の高校に通っていた私は石巻の実家へ帰省するため、バスで仙台駅へ向かう途中、揺れに遭遇した。バスの手すりにしがみつかねばならなかった程の揺れは3分以上続いた。

 下宿先のアパートに戻ったが、避難所の場所さえ知らず、途方に暮れた。夕方、声をかけてくれたアパートの人たちと向かった小学校は不安げな多くの人がただいるだけで、配給物資もなかった。夕方アパートに戻り、真っ暗闇の部屋からようやく毛布を引っ張り出した。親切なご夫婦がくれた1枚のビスケットを分け合って空腹をしのいだ。絶え間ない余震に早く朝が来ないかと祈った。

 翌朝、仙台市内の高校に勤務する母が私を探しに来た。母の職場には備蓄物資があり、ようやく人心地ついたが、新聞号外を手にしたとき、故郷石巻が火の海となっている写真を目にした。実家の父と祖父は亡くなったと思った。一緒に避難していた妹はかわいがってくれた祖父を思いずっと泣き叫んでいた。

 電気の復旧とともにアパートへ戻った。家具の固定をしていなかった部屋をみて、地震の時部屋にいたらと想像すると今でも身震いがする。自転車で駆け回り食糧を探し、公園の水道に並ぶ生活を続けた後、父と祖父の無事が確認できた。実家の1丁目先で津波が止まり、難を逃れたという。

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