狭山事件:無実を主張し続ける男性による「脅迫状」との闘い

遺体発見現場付近=1963年5月、埼玉県狭山市

「脅迫状を書いた」とされながら、文字を書くことができないという男性がいました。彼は被害者のものとされる万年筆が、自宅の捜索で3回目にして突然「発見」されたのです。そして、警察官の嘘に騙された自白調書が「認めれば(懲役)10年で出してやる」というものであることも明らかになりました。こうした「証拠」に基づいて、彼は無期懲役判決を受けた後も、約60年にわたって無実を主張し続けています。

狭山事件で石川一雄さんの再審を求める人たち

この事件の関係者たちには石川一雄さん(84歳)がいます。彼は「狭山事件」で服役した人物です。石川さんは「被差別部落」として周囲から差別を受ける地域で生まれ育ちました。そのため、捜査の背景には地域への差別意識があったと指摘されています。

今年の10月、静岡で一家殺害事件の死刑囚である袴田巌さんの再審が始まり、再審を求める事案に注目が集まっています。石川さんは1994年に仮釈放されましたが、「見えない手錠がかかったまま」再審を訴え、全国を飛び回りました。再審開始を求める署名は51万を超えました。しかし、世間の関心はまだ十分ではありません。(共同通信=当木春菜)

被差別部落の出身者を「非識字者」として断罪

狭山事件は1963年5月に発生しました。女子高校生が下校途中に行方不明になり、被害者宅に脅迫状が届きました。数日後、遺体が見つかりました。石川さんは窃盗の疑いなどで別件逮捕された後、この殺人事件の容疑などで厳しい取り調べを受けました。

石川一雄さんと早智子さん

裁判では、被害者のものとされる万年筆が自宅から見つかったことや、逮捕時に書いた上申書と脅迫状の筆跡が一致したとの鑑定結果が証拠とされました。さらに、石川さんの自白も重視され、有罪判決が下されたのです。1977年に無期懲役が確定しました。

しかし、当時24歳だった石川さんは「非識字者」と呼ばれる人物でした。その背景には生家の貧しさがありました。彼は幼い頃から家計を支えるために働き、学校にほとんど通うことができませんでした。

「非識字者」という状況は石川さんの人生に大きな影響を与えました。字を書けないことが職場に知られたため、製菓工場で3年間働いた後に退職せざるを得ませんでした。

逮捕当日に石川さんが書いた上申書には、「署長殿を「しちよんどの」、20万円を「20まいん」と読める、乱れた文字が記されていました。字が読めなかった石川さんは法律や弁護士の役割についても理解していませんでした。警察官の「認めれば(懲役)10年で出してやる」という言葉を信じて自白したのです。後に法律を学び、自分がだまされていたことを知った彼は、「世間知らずにつけ込まれ、犯人にでっち上げられた」という思いを抱いています。

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