自販機にピースサイン 、体調不良は「ばい菌の仕業」…死刑判決から半世紀超、記者が見た袴田さんの拘禁症状 無罪確定後は変化を感じさせる言葉も。釈放から10年、姉と2人暮らしの日常


【写真】秋葉原無差別殺傷、死刑執行された加藤智大元死刑囚が最後に残した絵とは 死刑囚16人の作品を展示した表現展

 1936年、現在の浜松市に生まれた袴田さんは日本ランキング上位に入ったこともある元プロボクサーで、20代で引退後、静岡県清水市(現在は静岡市)のみそ製造工場に住み込みで働いた。

 人生が一変したのは1966年。工場を経営する会社の専務一家4人が殺害され、金品が奪われた上、放火されるむごたらしい事件が起きた。警察は30歳だった袴田さんを逮捕。袴田さんは「身に覚えがない」と否認したが、事件から約1年2カ月後になって、工場のみそタンクから見つかった血染めの5点の衣類などが決め手となり、裁判で死刑判決を受け、1980年に確定した。
 袴田さんは東京・小菅の拘置所でいつ執行されるか分からない日々を過ごしながら、裁判をやり直す再審を求めた。一方、死刑が確定した頃から拘禁症を患い、次第にひで子さんとも意思疎通ができなくなった。2014年3月、2度目の請求で静岡地裁は再審開始と東京拘置所からの釈放を決定。逮捕から約48年がたち、袴田さんは78歳になっていた。

 釈放後、浜松市でひで子さんと暮らす袴田さんを、記者(柳沢)が初めて訪ねたのは、2023年10月に始まった再審の審理が終わった今年5月。拘禁症状が残るというニュースは知っていたが、釈放から10年がたち、ある程度コミュニケーションは取れるだろうと想像しながらドアを開けた。

 袴田さんはテレビの前の椅子に座り、ちらりと記者の顔を見て、すぐテレビに視線を戻した。口元が動いているのに気づき、あいさつをすると、軽い会釈と「こんにちは」と返ってきた。
 ほっとしたのもつかの間、気温30度を超える蒸し暑さの中、袴田さんが長袖シャツを2枚重ね着し、汗びっしょりになっているのに気づいた。支援者が脱がせようとしても「寒くなるんだ」とかたくなに拒んだ。高齢者は体温調節が苦手で、厚着の人も珍しくないが、何か違う感じがした。ひで子さんに理由を聞いたところ「拘置所生活のせいではないか」との答えが返ってきた。



Source link