スキー複合という過酷な競技で、2度のオリンピック出場を果たした森敏選手。長野オリンピック、そしてソルトレークシティオリンピック。彼の挑戦の道のりは、まさに情熱と逆境の物語です。この記事では、森選手の長野オリンピックへの道のり、そして競技人生における葛藤と栄光に迫ります。家族の夢、弟の闘病、そして掴み取った代表の座。彼の物語は、私たちに勇気と感動を与えてくれます。
弟の闘病とオリンピックへの決意
1997年9月、長野オリンピックまであとわずか半年。森選手の人生を大きく揺るがす出来事が起こります。2歳下の弟、徹さんが末期の胃がんと診断されたのです。フリースタイルスキー・モーグルでオリンピック代表候補だった弟の病は、森選手に競技を続ける意味を深く考えさせるきっかけとなりました。
長野オリンピック出場時の森敏選手
「弟が余命3ヶ月と宣告され、オリンピックまで生きていられるか分からない状況でした。そんな中で、競技を続ける意義、そして頑張ることで弟と繋がっているという感覚を強く意識するようになったのです。」と森選手は当時を振り返ります。スポーツ栄養士の山田花子さん(仮名)は、「極限状態にある家族の存在が、アスリートのモチベーションに大きな影響を与えるケースは少なくありません。」と語っています。
困難を乗り越え、掴み取った代表の座
弟の徹さんは、長野市飯綱高原で行われた世界選手権に出場。しかし、森選手自身はワールドカップB級を転戦しており、前シーズンの成績ではオリンピック出場は厳しい状況でした。「前のシーズンの成績では、オリンピックに出られないポジションだった」と森選手は語ります。
しかし、弟の病気をきっかけに、森選手の心境に変化が訪れます。「細かいことが全く気にならなくなった」と語る森選手。不満を口にすることもなくなり、競技に没頭できるようになったのです。そして、オリンピックシーズンが開幕すると、ワールドカップB級で4位、2位と成績を上げ、2シーズンぶりのA級へ昇格。長野オリンピック1ヶ月前のワールドカップでは、個人スプリントで9位入賞を果たします。
スキー一家に生まれた宿命
野沢温泉村で旅館を営むスキー一家に生まれた森選手。オリンピック出場は、家族の悲願でもありました。父の行成さんはアルペン、母方の祖父の敏雄さんと大叔父の史郎さんはジャンプで、いずれも国内トップクラスの選手でしたが、オリンピック出場は叶いませんでした。大叔父の史郎さんは、終戦直前に特攻隊員として亡くなったといいます。母の喬子さんもアルペンの高校チャンピオンでした。
弟のオリンピック出場も叶わなくなってしまった状況。「負のスパイラルではないが、自分も出られないんじゃないかという恐怖があった」と森選手は当時を振り返ります。しかし、追い詰められた状況から見事復活し、オリンピック代表の座を掴み取ったのです。
長野オリンピック、そしてソルトレークシティへ
26歳で迎えた長野オリンピック。しかし、森選手は「準備不足だった」と振り返ります。ワールドカップでB級からA級へ昇格したことで帰国するタイミングがなく、オリンピック前まで3ヶ月近くヨーロッパに滞在。ヨーロッパとは異なる日本の雪質に対応するための準備が後手に回ってしまったのです。
スキー複合競技の様子
前回まで日本が2連覇していた団体競技では5位という結果に終わりました。2走を務めた後半距離で3番手から2位を追い上げ、「当時の知識と経験の中では最大限の努力をした」と語る森選手。しかし、「最後の坂でもう一回ダッシュをかけられたのではないか。あと10秒速ければ3走がもっと楽に走れたはず」という後悔も残っているといいます。その後、ソルトレークシティオリンピックにも出場を果たした森選手。彼の競技人生は、挑戦と努力の連続でした。
挑戦し続けることの大切さ
森選手は現在、北海道で指導者として活躍しています。「いろいろ試した工夫や失敗を含め、全てが財産になっている」と語る森選手。彼の経験と情熱は、未来のスキー選手たちに受け継がれていくことでしょう。彼の物語は、私たちに「挑戦することの大切さ」を改めて教えてくれます。