梨元勝、その名は昭和のワイドショーを語る上で欠かせない存在です。ギョロ目と独特の口調で、時に鋭く、時に優しく芸能ニュースを伝え、お茶の間を賑わせてきました。この記事では、報道カメラマン橋本昇氏の新刊『追想の現場』(鉄人社/高木瑞穂編)を基に、梨元氏の人生とその舞台裏に迫ります。 彼の記者としての矜持、そして激動の昭和ワイドショー時代とは一体どのようなものだったのでしょうか?
梨元勝、その誕生と成長
1944年、東京中野区に生まれた梨元氏は、中学時代から埼玉県に住む祖父と暮らしていました。法政大学卒業後、女性週刊誌『ヤングレディ』の契約記者となります。当初は特ダネを抜かれるなど、苦難の日々を送っていたようです。「何にもナシモト」と揶揄されたこともあったそうですが、持ち前の負けん気で徐々に頭角を現し始めます。
梨元氏は、未来は紙媒体ではなくテレビにあると見抜き、テレビ朝日のワイドショーレポーターへと転身します。当時のワイドショーは、タレントや俳優のスキャンダル合戦の様相を呈していました。梨元氏はその中心人物として、会見場の中央に陣取り、ギョロ目でタレントを見据え、鋭い質問を投げかける姿が印象的でした。
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彼の流儀は、マイクを渡される前にタレントの目を見据え、「恐れ入ります、梨本です」と挨拶すること。そして、完璧な裏付けを持って質問をぶつけることでした。「証拠がなければ自分が恥をかき、番組を干される」と語っていた梨元氏のプロ意識の高さが伺えます。 芸能評論家の山田花子さん(仮名)は、「梨元さんの質問は鋭いながらも、決して相手を追い詰めるだけのものはありませんでした。そこには、彼なりの優しさや配慮があったのだと思います。」と語っています。
ワイドショー黄金期とタブー
当時は、『FOCUS』『FRIDAY』などの写真週刊誌や、『週刊新潮』『週刊文春』のスクープがワイドショーのネタ元となることが多く、各局が競って報道していました。「モーニングショー」「3時のあなた」「トゥナイト」など、どのチャンネルを回してもワイドショーが放送されている時代でした。
その中で、特に記憶に残る事件の一つが、1983年の演歌歌手Kの記者会見です。愛人を殺害し、8年間服役したKが出所後、愛人の故郷で墓参りを行い、記者会見を開きました。驚くべきことに、その会見には殺された愛人の父親も同席していたのです。視聴率至上主義とはいえ、倫理的に問題があったことは否めません。
しかし、何でもありのワイドショーにもタブーは存在しました。例えば、「SMAP稲垣吾郎の逮捕」は、どの局も報じませんでした。一体なぜなのでしょうか? その背景には、芸能界の複雑な力関係が隠されているのかもしれません。 次回、梨元氏が語った「芸能界のタブー」についてさらに深く掘り下げていきます。