「山一證券なんて潰せ」「いや再建だ」…田中角栄氏も動いた64年「日銀特融」の“秘密会合”、大蔵省の高級官僚が見た舞台裏


大蔵省の官僚として舞台裏にいた人物

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 山一の深刻な経営状態はメディアも知るところではあったが、大蔵省は大手新聞社に対して計画がまとまるまでの報道自粛を要請。21日に初めて報じたのは、自粛協定外の西日本新聞である。

 22日には再建案が発表され、5月28日夜には大蔵大臣の田中角栄氏と日本銀行総裁の宇佐美洵氏(ともに当時)が会見。証券業界への日銀融資や山一への特別融資などを発表する。この経緯や角栄氏の立ち回りぶりは後年にドキュメンタリーなどで明らかにされているが、「週刊新潮」1971年1月9日号は、大蔵省の官僚として舞台裏にいた加治木俊道氏に話を聞いていた。

「山一がニッチもサッチもいかないといい出した」1964年の夏から、再建案のために何回も重ねられたという“隠密会合”。山一再建を強引に推し進めたのは、大蔵省の2、3名の高級官僚でつくられた“作戦本部”だった――。

(「週刊新潮」1971年1月9日号「『山一』特融を決定するまでの大蔵省作戦本部」を再編集しました。文中の肩書き等は掲載当時のままです)

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2、3名の高級官僚でつくられた“作戦本部”

 こうして、大蔵省、日銀が銀行側の了承をとりつけると、22日、瀕死の山一証券の再建案が発表された。ところが、この再建案の発表は、逆に「そんなに危ないのか」という感じを一般大衆投資家にいだかせる結果となり、運用預かり証券、投資信託などの解約客が相次ぎ、取付け騒ぎの様相を呈した。

 そこで28日、日銀は日銀法25条による無担保、無制限の特別融資に踏み切らざるをえなくなった。これがいわゆる山一特融で、以後、日銀が山一証券に融資した金額は累計282億円。当時、一私企業の経営危機に政府がこれほどまでにテコ入れする必要があるかどうかという疑問、いやこれは一私企業の間題ではなく、日本経済全体に通ずる危難を救ったものであるとする肯定論があった。

 そういう賛否両論の中で、この山一再建を強引に推し進めたのは、実は、大蔵省の2、3名の高級官僚でつくられた“作戦本部”だったのである。



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