東大卒などの偏差値エリートは、なぜ知識を増やすほど愚かに見えるのか!古代中国の思想家が説く「バカの壁」に陥る人、乗り越える人!


 そんな話があるわけではありません。でも、この時代にこそ、そんな逆説を真面目に考えてみる価値があるのではないでしょうか。

【図表】養老孟司と老子のバカの壁の違い

■偏差値エリートとバカになる勇気

 学歴、偏差値、資格。これらは知の勲章として長らく信仰されてきました。東大卒、弁護士、MBA……、社会に出てからも「どれだけ知識があるか」「どれだけ資格をもっているか」で人は評価されます。そして、評価の高い人の多くが、その「知識ゲーム」に勝ち抜いてきた自負を持っています。

 「でも、何が悪いんですか?」

 そう思う人も多いでしょう。ある若手社員が言っていました。

 「自分は努力して勉強して、いい大学に入って、いまの会社に就職した。そのことを否定されると、全部が崩れる気がします」

 その感覚はよくわかります。努力を重ねて積み上げてきた知識とキャリア。それを「知識を増やすほどバカになる」と言われたら、抵抗を感じるのは当然です。

大成若欠、大盈若沖。
(大いなる完成は、欠けているように見え、満たされたものは、まるで空のようだ)

 一見して矛盾に満ちたこの言葉の奥には、「満ちたものは、実はもっとももろく、変化に対応できない」という深い洞察があります。反対に、「空」や「欠け」に見えるものは、柔軟で変化を受け入れる余地を持っています。

 つまり、「私はこれだけ知っている」「この問題にはこう答える」と胸を張る人ほど、道から遠ざかっているかもしれないのです。

 ある日、ある経営者との会話で、こんなやり取りがありました。

 「最近、頭の良い人を採用しても、なぜか現場でうまく動けないことが多くてね」

 「それは、どういう人ですか?」

 「東大とかの一流大学を出ていて、理屈的なことにはめっぽう強い。でも、自分で動けない。常に『これで合ってますか?』と上を見てしまうんです」

 この話は、まさに“知の限界”を示しています。知識や偏差値で得られるのは「既知の世界」です。でも、ビジネスや人生の現場は「未知」に満ちています。そこでは、「知らないことを受け入れる力」こそが問われます。



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