1912年に古物商ウィルフリド・ヴォイニッチによって発見された『ヴォイニッチ手稿』は、独特なタッチの挿絵と未知の文字で埋め尽くされた古文書です。描かれている植物は実在するものと大きく異なり、書き綴られた文章は完全に暗号化されていることから、「世界一解読が難しい本」とも呼ばれています。この奇妙な書物は、発見されて以来、多くの研究者や暗号解読家を魅了し、その深遠な謎に挑ませてきました。本稿では、このヴォイニッチ手稿にまつわる歴史を紐解き、その解読に人生を賭けた人々の物語を紹介します。
未解読の古文書『ヴォイニッチ手稿』を象徴するイメージ写真
手稿の発見と、それに添えられた謎の手紙
稀覯本を専門とする古物商ウィルフリド・ヴォイニッチは、1912年にイタリアのイエズス会修道院ヴィラ・モンドラゴーネで『ヴォイニッチ手稿』を発見しました。手稿を手に取ったヴォイニッチは、それが通常の書物とは全く異なるものであることを直感しました。特に彼の興味を強く引いたのは、手稿に添付されていた一枚の手紙でした。
この手紙は羊皮紙にラテン語で記されており、プラハ大学総長ヨアンネス・マルクス・マルチが、ローマの著名な学者アタナシウス・キルヒャーに宛てたものとされています。手紙の要旨は、「この謎めいた書物を読み解けるのはキルヒャー猊下だけ」「神聖ローマ皇帝ルドルフ2世が、ロジャー・ベーコン作として600ダカットで購入したとされるが真偽は不明」といった内容で、真実を見抜くキルヒャーの慧眼への期待が綴られていました。
手紙が示唆する歴史上の人物像
手紙に登場する人物は、当時のヨーロッパ史において重要な役割を担った人々です。神聖ローマ皇帝ルドルフ2世は、特に錬金術師を厚く保護したことで知られる皇帝でした。また、ロジャー・ベーコンは、実験を通じて自然現象を探求した大錬金術師であり、「最初の科学者」とも呼ばれます。彼は後の時代に発明される顕微鏡、望遠鏡、飛行機、蒸気船などを予想していたとされる書物を残しています。
もし『ヴォイニッチ手稿』が本当にベーコンの手によるものだとすれば、なぜ彼はその内容を暗号化してまで隠そうとしたのでしょうか?そこに秘められた「英知」とは一体何だったのか、多くの人々を惹きつけました。
暗号解読への挑戦:コードかサイファか
ヴォイニッチによる手稿の発見以来、その不可解な文字に魅せられた多くの人々が解読に挑みました。彼らがまず直面したのは、この暗号が「コード(Code)」なのか「サイファ(Cipher)」なのかという根本的な問いです。日本語ではどちらも「暗号」と訳されますが、暗号化の単位が異なります。コードは単語ごとを別の単語や記号に置き換える方式で、解読には対応表(辞書)が必要です。一方、サイファは文字ごとを別の文字や記号に置き換える方式で、解読には置換ルールを見つける必要があります。
『ヴォイニッチ手稿』の文字は、初期の研究者たちの目には単語構造があまりにも複雑に映ったため、多くがサイファであると予測しました。
解読の糸口?:周波数分析
サイファ文の解読において、古くから強力な手掛かりとされてきたのが「周波数分析」という手法です。これは、言語によって特定の文字や文字の組み合わせが出現する頻度に偏りがあることを利用して、暗号化されたテキストから元の文字を推測するものです。この手法は、特に換字式サイファの解読に有効でした。多くの解読者は、ヴォイニッチ手稿の文字もこの手法で解析できるのではないかと考え、長い間、重要なアプローチとして試み続けられました。
発見から100年以上が経過した現在でも、『ヴォイニッチ手稿』は多くの謎に包まれたままです。独特な文字体系、描かれた奇妙な動植物、そして不確かな起源。多くの人々が解読に挑み、様々な説が提唱されてきましたが、決定的な突破口は見つかっていません。しかし、この「世界一ミステリアスな本」は、今なお世界中の研究者や愛好家を魅了し、その深遠な謎への挑戦は続いています。