NHK大河ドラマ『べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~』は、江戸時代中期の出版人、蔦屋重三郎の生涯を描き、大きな注目を集めている。特に第23回「我こそは江戸一利者なり」では、蔦重の経営する「耕書堂」が狂歌の指南書をヒットさせ、有力な版元として名を馳せていく様子が描かれた。この回で焦点を当てられたのが、当時の江戸を席巻した「狂歌ブーム」である。稀代の出版人が関わったこの流行は、日本の文学・文化史においてどのような意味を持つのだろうか。
狂歌ブームの火付け役、大田南畝(四方赤良)
ドラマの冒頭で描かれたように、当時の狂歌人気はすさまじく、中でも大田南畝、こと「四方赤良(よもの あから)」は、その中心人物として絶大な人気を誇っていた。彼の名は子どもまで知れ渡っていたとされるほどだ。作中では、俳諧師の雪中庵蓼太が南畝に『蓼太句集』の序文執筆を依頼した際に詠んだとされる、「高き名の ひびきは四方に わき出て 赤ら赤らと 子供まで知る」という歌が紹介され、その人気のほどがうかがえる。
「詠み捨て」から「出版」へ、狂歌を取り巻く状況の変化
それまで狂歌は、その場で詠んで楽しむ「詠み捨て」が原則であり、後の世に残ることは少なかった。しかし、狂歌ブームの中で状況は一変する。四方赤良と朱楽菅江(あけら かんこう)が編纂した748首を収めた『万載狂歌集』と、唐衣橘洲(からごろも きっしゅう)による『狂歌若葉集』という二つの狂歌集が出版されたのである。
中でも、編集に工夫が凝らされた『万載狂歌集』は大きな話題を呼び、狂歌師たちの間で「自分の狂歌が本に掲載される」という新たな目標が生まれた。これは、狂歌が単なる遊びから、文学的な価値を持つものとして認識され始めた画期的な出来事だったと言える。
絶頂を極めた四方赤良の人気
もともと才能あふれる売れっ子として知られていた大田南畝は、「四方赤良」という狂歌名でも、その名を一層高めることとなった。ドラマで披露された「われを見て 又うたをよみ ちらすかと 梅の思はん こともはづかし」という歌からは、「また私を見て歌を詠もうとしているのか」という梅の花の気持ちを代弁するほど、彼が常に狂歌に没頭し、そしてその歌が人々に注目されていた様子が伝わってくる。隙あらば歌を詠み、それが多くの共感を呼ぶ。まさに狂歌が大ブームであった証左と言えるだろう。
べらぼうの時代に関連する江戸の寺院、徳本寺
江戸の町人文化の中で生まれた狂歌ブームは、蔦屋重三郎のような出版人の手腕によってさらに広がりを見せ、『万載狂歌集』のような出版物は、狂歌を後世に伝える上で重要な役割を果たした。ドラマ「べらぼう」は、単に蔦重の物語だけでなく、彼が生きた時代の熱狂的な文化の様相をも映し出している。
まとめ
NHK大河ドラマ『べらぼう』を通じて描かれる江戸時代の狂歌ブームは、大田南畝こと四方赤良を中心とした流行であり、『万載狂歌集』などの出版によって「詠み捨て」であった狂歌が文学として確立される大きな転換点となった。蔦屋重三郎の出版事業の成功も、この時代の文化的な熱狂と深く結びついていたと言えるだろう。ドラマは、この活気あふれる江戸の文化の一端を鮮やかに描き出している。