首都高速道路株式会社が、利用客からのカスタマーハラスメント(カスハラ)に該当する電話に対し、理由を伝えた上で電話を切っても良いとする「切電マニュアル」を導入してから2年が経過しました。年間約62万件の電話に対応する同社の「お客さまセンター」では、実際に電話を切った事例はこれまでわずか34件にとどまっています。しかし、このマニュアルの導入は、従業員が会社に守られているという安心感を生み出し、予期せぬ抑止効果も実感されているといいます。
首都高速道路お客さまセンターの業務実態
都内某所に設置されている首都高速道路お客さまセンターは、年間を通じて約62万件もの問い合わせ電話に対応しています。主な内容は、目的地までの所要時間や渋滞予測に関する問い合わせから、サービスへの意見やクレームまで多岐にわたります。筆者がセンターを訪れた際、スタッフは次々と入電する電話に応対していましたが、これは「凪」の状態だといいます。突発的な事態、例えば積雪が予想される際の「予防的通行止め」実施時には、「いつまで通行止めを続けるのか」といった苦情を含む問い合わせ電話が3日間で1万件を超えるなど、状況は一変することがあります。
社会的なカスハラ対策の広がりと背景
近年、顧客からの度を超えた言動、すなわちカスタマーハラスメントから労働者を保護するための動きが社会的に広がっています。自治体によるカスハラ防止条例の制定や、企業による対策作りの策定が急ピッチで進められています。威圧的な態度や暴言に継続的にさらされた結果、精神的な不調を訴えたり、離職を選択せざるを得ないケースも報告されており、その未然防止は喫緊の課題となっています。首都高速道路は、このような状況に先行して対応するため、2023年5月にお客さまセンターで「切電マニュアル」を導入しました。
「切電マニュアル」の詳細と従業員保護の効果
導入された「切電マニュアル」はA4用紙わずか2枚にまとめられており、オペレーターやその上長が迅速に判断できるよう、非常に分かりやすいルールが定められています。具体的には、以下の3項目いずれかに該当する場合、利用客に理由を明確に伝えた上で電話を終了(切電)しても良いとしています。
- 回答内容に問題がないにも関わらず、30分以上にわたり同じ内容の主張を繰り返す行為
- 正当な理由に基づかない不当な要求(例:「社長を出せ」など)
- 従業員に対し、威圧的な発言や口調を用いる行為(例:「バカ野郎」などの暴言)
カスハラ行為の判断を支援するため、通話内容をリアルタイムで文字化する「音声認識システム」も同時に導入されました。このシステムは、暴言や10分以上通話が継続した場合にアラートを発する機能を持っており、利用客の発言内容や、どのようなやり取りが怒りを誘発したかを「見える化」することで、オペレーターと上長が状況を共有し、連携して対応することを可能にしています。
度を超えたカスハラ電話対応に苦慮するコールセンター従業員のイメージ
マニュアル導入を決定づけた過去の深刻な事例
この「切電マニュアル」導入の背景には、2012年頃から長期間にわたり続いた、ある特定の男性からのカスタマーハラスメント電話の存在がありました。首都高速道路の担当者は、その当時の状況を「苦しまされ続けた過去があった」と率直に語っています。当時の録音を聞くと、工事渋滞の予測が外れたことに対して怒り狂い、オペレーターを一方的に恫喝する音声が記録されています。
この男性からの電話は、多い時には一日に3~4回かかってくる時期もあれば、一ヶ月ほど途絶えた後に再びしつこい電話が始まるという状況を繰り返していました。さらに深刻だったのは、2019年頃から発言の内容がエスカレートしていったことです。2時間を超える長時間の通話となり、日付をまたぐこともありました。その中には、「腹切るんなら首跳ねに行ってやる!」「首くくるなら足引っ張りに行ってやるよ。え!」「ビルから飛び降りるなら背中押して、脱いだ靴を揃えるくらいしてやるよ!」といった、従業員の生命や身体に危険を示唆するような、極めて悪質で脅迫的な発言が含まれていました。
連日連夜、このような電話対応を強いられた従業員は、心身ともに限界寸前に追い詰められていました。当時の社会では、カスタマーハラスメント対策に現在ほど焦点が当たっておらず、首都高においても、カスハラ被害が直接の原因で退職したり心身を病んだ事例は一件も発生していませんでした。しかし、状況は変わります。
京アニ事件を契機とした脅迫認識の変化と法的措置
2019年7月に発生した京都アニメーション放火殺人事件は、社会全体に大きな衝撃を与えました。この事件において、容疑者がインターネット掲示板に犯行予告とも取れる書き込みをしていたことが報道されたことは、脅迫行為の深刻さを改めて浮き彫りにしました。前述のカスハラ男性も「今から首都高に行ってやる」といった趣旨の脅迫的な発言を複数回繰り返していたため、首都高の組織としてこの事態を看過できないと判断し、本格的な対策作りに乗り出す契機となりました。
首都高は、弁護士や警察と連携して対応を協議し、この男性の行為に対する被害届を提出しました。その結果、男性は威力業務妨害と脅迫の罪で有罪判決を受けるに至りました。
結論
首都高速道路が導入した「切電マニュアル」は、カスタマーハラスメントという社会課題に対し、従業員を具体的に保護するための重要な一歩と言えます。実際に電話を切る事例は少ないものの、その存在が従業員に安心感を与え、悪質な行為に対する一定の抑止力となっていることは、コールセンター業務における労働環境改善のモデルケースとなり得ます。過去の深刻な事例や社会情勢の変化を踏まえ、企業が従業員の安全と健康を守るための明確な方針を示すことの重要性を改めて示す事例です。