かつて中央アジアに暮らす一握りの遊牧民に過ぎなかったモンゴル人が、やがて世界最大規模の帝国を築き上げた。この出来事は「人類史上最大の奇跡」とも呼ばれるが、さらに驚くべきは、その始まりが一人の男、チンギス・カンの野望にあったという事実である。その壮大な興亡の歴史に挑んだのが、作家・百田尚樹氏だ。『永遠の0』でのデビュー以来、『海賊とよばれた男』『モンスター』などの話題作を発表し、『日本国紀』や『地上最強の男』といった通史・ノンフィクションでも高い評価を得てきた百田氏が満を持して上梓したのが、『モンゴル人の物語』(新潮社)である。「これが私の最後の大作になるかもしれない」と語る物語には、いったいどのような想いが込められているのか? 帝国を築き上げたモンゴル人の進撃、そして没落に至る謎とは? その旅路の果てに百田氏が見ようとしたものは何なのか? 以下、4月に刊行された『モンゴル人の物語 第一巻 チンギス・カン』から一部を抜粋して紹介する。
チンギス・カン肖像:弱小部族から広大な帝国を築いた指導者
ユーラシア大陸を覆ったモンゴル帝国の規模
世界史の中では「奇跡」としか呼べないような出来事が何度か起こっている。その一つがモンゴル人によるユーラシア大陸の支配だ。彼らが支配した面積は歴史上最大規模で、約三三〇〇万平方キロメートルに及ぶ。これは旧ソビエト連邦と中華人民共和国を合わせた面積よりも広い。大航海時代に世界中に植民地を持っていたかつての大英帝国を別にして、一つの大陸でこれほどのスケールを持った国は存在しなかった。そして、おそらく今後も二度と生まれることはないだろう。もし生まれるとすれば、それは人類史上最悪の独裁国家か、逆に国家や民族の枠を超えた巨大な連合体になると思われる。モンゴル人による大帝国はその存在自体が信じがたいものだが、私が奇跡と呼ぶのはそのことをもってではない。大帝国が生まれる半世紀前まで、彼らは歴史上にもほとんど登場しない、言うなれば取るに足りない部族だったのだ。
歴史の陰に隠れた弱小部族
現在のモンゴル国東北部からロシア国境あたりで、遊牧と狩猟により細々と生計を立てていた少人数の群れに過ぎなかった。彼らは高度な文化は持たず、また文字も持たなかった。周辺の大きな勢力を有する他の遊牧民族たちに常に圧迫され、自らの生存を守るだけで精一杯の暮らしを、おそらく何百年も続けてきた。「モンゴル」の語源は「勇敢な人」だと一般に言われているが、モンゴルについての第一級の歴史書である『集史』には、「モンゴルとは素朴で脆弱という意味」だと書かれている。有名なアルメニア系歴史学者のコンスタンティン・ムラジャ・ドーソンの大著『モンゴル帝国史』もそれに倣っている。私にはどちらが正しいのか判断がつかないが、『集史』の説には惹かれるものがある。なぜなら長い間モンゴル部族は他の遊牧民族からしてみれば弱々しい民に見えたであろうからだ。そしてモンゴル人自身もそう見ていたと思われる。
百田尚樹著『モンゴル人の物語 第一巻 チンギス・カン』書影:人類史上最大の『奇跡』に迫る
強大な遊牧民族たちの時代
北方や中央ユーラシアには紀元前から勇壮な遊牧民族たちが割拠していた。彼らに散々苦しめられた中華帝国の歴史書には、その名が何度も出てくる。匈奴(きょうど)、鮮卑(せんぴ)、柔然(じゅうぜん)、突厥(とっけつ)などだ。彼らの華々しい活躍の陰に隠れて、モンゴルの名はどこにも出てこない。ただ十世紀に編まれた『旧唐書(くとうじょ)』の中に「蒙兀室韋(もうごつしつい)」という部族の名前が一ヵ所出てくる。室韋というのは六世紀から十世紀まで中国東北部に存在していた諸集団の総称であるが、この蒙兀室韋はおそらくモンゴル人のことであろうと考えられている。遊牧民たちにも多くの民族の興隆があった。ある民族が隆盛を誇っても、次の時代には別の民族が取って代わり、その勢力図は何度も書き替えられた。
絶え間ない争いと内部抗争
遊牧民たちにとって、こうした戦いは日常生活の一部だった。そんな中にあって、おそらく弱小部族であったモンゴルは必死で生きながらえてきたのだろう。ただ、そのモンゴル人もまたいくつかの部族に分かれて内紛を繰り返していた。
結論:弱小部族から世界帝国へ、百田氏が描く歴史の謎
このように、歴史の表舞台にほとんど登場せず、弱小で内紛を繰り返していた一介の遊牧部族が、わずか半世紀のうちに人類史上最大規模の帝国を築き上げたという事実は、まさに驚異的としか言いようがない。百田尚樹氏の『モンゴル人の物語』は、この「奇跡」とも呼ばれる壮大な歴史の謎、そしてその中心にいたチンギス・カンの野望に深く迫る試みである。