1980年、埼玉県所沢市で、産婦人科を受診した女性たちが、病院から虚偽の診断を告げられ、健康な子宮や卵巣を不必要に摘出されるという、にわかには信じがたい事件が発覚しました。この富士見産婦人科病院(既に廃業)を舞台にした医療過誤事件は、当時の社会に大きな衝撃を与えました。何十人もの女性が身体の一部を奪われたこの事件は、「医療の名を借りた犯罪」としてその後の医療体制や患者の権利意識にも影響を与えました。
事件の発端は、一人の妊婦の証言でした。この妊婦は富士見産婦人科病院で診察を受けた際、「腹の中がグチャグチャだ、このままではガンで死ぬ」という衝撃的な「診断」を受けました。しかし、別の病院で診察を受けたところ、そこでは「まったく異常なし」と診断されたのです。この食い違いを不審に思った妊婦が声を上げたことをきっかけに、他の被害者たちも続々と名乗り出始めました。
調査が進むにつれて、驚くべき実態が明らかになりました。同病院の理事長が医師免許を持たずに診療行為を行っていたこと、そしてその妻である院長の医師も関与し、患者に対して虚偽の診断を告げていた事実が判明したのです。さらに、無資格の理事長と院長夫妻のもとで、診断の根拠もないまま、不必要な子宮や卵巣の摘出手術が繰り返されていたことが明るみに出ました。1980年9月、同病院の院長が傷害容疑で逮捕され、事件は全国的なニュースとなりました。
1980年に世間を騒がせた富士見産婦人科病院事件に関するアーカイブ映像の一場面
不必要な手術が繰り返された動機は、今もなお完全に解明されていません。しかし、手術件数を増やすことで多額の利益を得ようとした経済的な理由や、学会での発表のための症例数を確保しようとした自己顕示的な理由などが取り沙汰されました。いずれにせよ、そこには患者の健康や生命よりも、病院側の一方的な都合や欲望が優先されていたことが示唆されています。
その後の捜査と裁判の過程で、病院から押収された40体に及ぶ臓器の医学鑑定が行われました。その結果、実際に病変が認められた臓器はごく一部に過ぎなかったことが判明しました。健康な臓器がこれほど多数摘出されていたという事実は、病院ぐるみで組織的に「医療の名を借りた犯罪」が行われていた疑いを一層強めることとなりました。
しかし、法的な結論は被害者の感情と乖離するものでした。医療法違反については、無資格診療を行った理事長と虚偽診断を行った院長に執行猶予付きの有罪判決が下されました。一方で、健康な臓器を摘出したという重大な行為に対する傷害罪については、「証拠不十分」などを理由に不起訴となったのです。
無資格診療や不必要な手術が発覚し、マスメディアの前で無実を訴える富士見産婦人科病院の理事長
刑事裁判での結果に納得できない被害者たちは、民事裁判を通じて損害賠償を求める長い闘いを続けることとなりました。この事件は、医療現場における倫理の重要性、患者が適切で正確な情報を得る権利、そして医療行為に対するチェック機能の必要性を強く社会に問いかけるものとなりました。健康な身体の一部を奪われた被害者たちの苦しみは深く、この事件が残した傷痕は計り知れません。