タレント・国分太一氏の無期限活動休止発表は、TOKIOの解散報道と共に世間に衝撃を与えた。日本テレビが「コンプライアンス違反」を認めたものの、具体的な内容が伏せられたことで、憶測や伝聞が飛び交い、国分氏への社会的制裁だけが確定する状況が生まれた。これは、松本人志氏のケースにも通じる、法的な事実認定を待たずにメディアの「疑惑」によって個人の社会生命が左右される現実を浮き彫りにする。政治家と異なり、法や制度を動かす権限を持たない芸能人が、なぜ私生活の隅々まで暴かれ、道徳的に断罪されなければならないのか。所属する「株式会社TOKIO」も廃業に追い込まれた。本稿では、週刊誌の国分氏に関する報道を典型例とし、現代メディアが芸能人に対して行っている「道徳裁判」の不均衡を問う。経済誌プレジデントの元編集長で作家の小倉健一氏が、報道のあり方と、それに晒される芸能人の人権について深く考察する。
結果として、何が起きたのか、誰が被害者なのか
TOKIOの国分太一氏が、2024年6月に長年出演してきた看板番組を降板し、無期限の活動休止を発表した。
実直なイメージで知られたTOKIOのメンバーにまで及んだスキャンダル報道に、多くの人が驚き、失望したことだろう。しかし、私たちはここで一度立ち止まり、冷静に問う必要がある。芸能人は、どうして一般人以上に厳しく叩かれ、私生活の隅々まで暴かれ、道徳的に断罪される必要があるのだろうか。
国分氏のケースでは、日本テレビが「コンプライアンス違反」を認めたものの、具体的な内容は「プライバシー保護」を理由に一切明かされていない。この対応は、過去にフジテレビが著名人の不祥事で詳細を公表し、批判が過熱した経験を踏まえた、企業防衛策としての側面が強いだろう。結果として、何が起きたのか、誰が被害者なのか、そしてその被害者が本当に救済されたのか、全てが不透明なまま、国分氏個人への社会的制裁だけが確定した。この構図は、現在司法の場で係争中の松本人志氏の事案とも重なる。松本人志氏のケースもまた、被害を訴える声がある一方で、被害実態は法的に確定しておらず、事実関係は明らかになっていない。にもかかわらず、メディア報道が先行し、活動休止という重い処分が下された。両者に共通するのは、法的な手続きや事実認定を待たずに、メディアが作り出す「疑惑」という名の空気によって、一個人の社会生命が左右されているという現実である。