「キングダム」王騎・蒙驁の史実とは?若き始皇帝を支えた将軍たちの真実

11日夜、映画「キングダム 大将軍の帰還」が地上波で初放送され、多くの関心を集めました。同作では、大沢たかおさんが演じる王騎将軍の勇ましい戦いぶりが描かれ、見どころの一つとなっています。この人気の将軍、王騎(おうき)は史実においてはどのような人物で、どのような活躍をしていたのでしょうか。また、彼とともに若き秦王嬴政(えいせい)を支えた将軍はいたのでしょうか。

映画『キングダム』で中国史監修を務めた学習院大学名誉教授・鶴間和幸氏は、その著書『始皇帝の戦争と将軍たち』の中で、秦の統一を支えた将軍たちの実像に触れ、王齮(おうき、おうこつ)や蒙驁(もうごう)といった老将軍たちが若き秦王に何を残したかについて詳しく述べています。以下では、この著書の内容に基づき、彼らの史実における足跡をたどります。

王齮(おうき):秦の三代(四代)の王に仕えた将軍

王齮は、王齕(おうこつ)とも表記されることがあります。彼は秦の昭王(しょうおう)、荘襄王(そうじょうおう)、そして秦王嬴政(後の始皇帝)という三代(短い期間でしたが、孝文王を含めれば四代)の王に仕えた重要な将軍でした。始皇三(紀元前244)年に亡くなったため、秦王嬴政を直接支えた期間はわずか三年ほどでした。彼の将軍としての主要な活躍は、主に昭王の時代に見られます。

『史記』(司馬遷による歴史書)に王齕として初めて登場するのは、昭王四七(紀元前260)年です。この年、彼は左庶長(当時の秦の爵位で第十級)として、趙の廉頗(れんぱ)率いる軍と対峙しました。上将軍である武安君白起(はくき)の副将として、歴史的に有名な長平の戦い(長平のたたかい)で戦功を挙げたことが記されています(『史記』白起列伝より)。

その後、『史記』秦本紀によれば、昭王四九(紀元前258)年に王齕は将軍に任命されました。翌年には鄭安平(ていあんぺい)とともに趙の首都である邯鄲(かんたん)を包囲しましたが、楚(そ)と魏(ぎ)が趙を救援したため、包囲を解いて軍を撤退させています。

王齮は始皇三年に戦死しました。この時、蒙驁将軍が韓(かん)と魏に対して大規模な攻撃を行っており、韓から十三城を獲得するなど、秦にとって非常に重要な戦役でした。王齮もこの戦いの最中に命を落としたと考えられています。『史記』に初めて登場した昭王四七年から戦死する始皇三年まで、十六年間にわたり秦のために尽くした武将でした。蒙驁、王齮、そして麃公(ひょうこう)といった将軍たちが、若き秦王嬴政(当時十三歳から十五歳)を支えました。彼らは好戦的な昭王時代の豊富な経験を、少年王に伝えたのです。

秦始皇帝陵の兵馬俑。強大な秦を象徴する軍団。(画像提供:Zoonar/アフロ)秦始皇帝陵の兵馬俑。強大な秦を象徴する軍団。(画像提供:Zoonar/アフロ)

王齮ら老将軍たちが若き王に残したもの

嬴政が秦王に即位したのは、わずか十三歳(紀元前247年)の時でした。呂不韋(りょふい)の働きかけにより、父である太子子楚(したいししそ)が秦王(荘襄王)となりましたが、わずか三年余りで亡くなったため、十三歳の嬴政に秦の王位が巡ってきたのです。この幼き王にかかった新たな重圧、それは秦王室の傍系であった嬴政に対する王室の嬴氏(えいし)一族からの強い圧力でした。

この困難を乗り越えられた大きな要因の一つとして、呂不韋や李斯(りし)といった、国内出身ではない有能な人材(食客として多くの人材を集めていた)が、少年嬴政を強力に支えたことが挙げられます。特に李斯は、嬴政が将来的に中華を統一する帝王となる人物であると見抜いていました。そして、この少年秦王を対外的な脅威から守ったのが、蒙驁や王齮といった、昭王時代からの経験豊かな初期の老将軍たちでした。

嬴政が十九歳(紀元前241年)になった時には、五カ国からなる合従軍(がっしょうぐん)が秦に侵攻し、国の存亡を左右する大きな危機に直面しました。東方五カ国の連合軍が、秦の首都である咸陽(かんよう)の近くまで侵攻したのです。咸陽近郊の土地だけでなく、祖父孝文王(こうぶんおう)の陵墓の地までもが攻撃されました。後に始皇帝が中華統一を振り返った際の発言から、この時の屈辱的な記憶が彼の心に一生残り、それが中華統一への強い活力となったことがうかがえます。

再びこのような侵攻を受けないようにするため、合従軍の結成を阻止し、東方六国を分断する必要がありました。これは当時、典客(外交官)を務めていた李斯の優れた外交力と、将軍たちの活躍によって実現されました。そのような中で、信頼していた蒙驁将軍を失ったことは、嬴政にとって大きな痛手でした。

始皇帝の曽祖父にあたる昭王(昭襄王)の時代から活躍し、豊富な経験を積んだ人材は、祖父孝文王、父荘襄王という短い在位期間を経て、そのまま秦王嬴政へと引き継がれました。わずか三日天下の孝文王と、在位三年余りの荘襄王という極めて短い治世であったため、昭王の時代から嬴政へと人材が直接継承されたことは、秦の強さの重要な基盤となりました。

王齮(始皇三年死去)と蒙驁(始皇七年死去)の二人の昭王時代の将軍は、嬴政が即位してから比較的早い時期に亡くなりましたが、その老将軍としての優れた技量と経験は、若き秦王を支え、さらに次の世代の若い将軍たちへと確実に伝えられました。特に斉(せい)の出身であった蒙驁の将軍としての才能は、息子である蒙武(もうぶ)、そして孫である蒙恬(もうてん)といった一族に受け継がれ、秦の軍事力を支えました。

これは、秦人の名将軍である王翦(おうせん)、その子である王賁(おうほん)、そして孫である王離(おうり)という「王家三代」の将軍たちにおいても同様でした。このように、優れた将軍の技量や経験が世代を超えて継承されていったことは、秦に敵対した東方六国の将軍たちにはあまり見られない特徴であり、秦が中華統一を成し遂げる上での大きな強みとなりました。王齮や蒙驁といった老将軍たちの知恵と経験の継承は、若き始皇帝の時代を支え、後の秦の快進撃の礎となったのです。

参考文献

  • 鶴間和幸 著『始皇帝の戦争と将軍たち ーー秦の中華統一を支えた近臣集団』(朝日新書)