第二次世界大戦の敗戦後、多くの日本人捕虜がシベリアなどへ送られ、過酷な強制労働を強いられました。この歴史的な悲劇で約5.5万人もの命が失われた背景には、ソ連最高指導者ヨシフ・スターリンが発した極秘指令が存在しました。その指令が日本軍の降伏前から計画されていたという驚くべき事実と、その詳細について深掘りします。本記事は共同通信社社会部編『沈黙のファイル 「瀬島龍三」とは何だったのか』(朝日文庫)を基に、その一端を紹介するものです。
スターリンが描いた「捕虜労働」の構想
極東ソ連軍総司令官ワシレフスキーの副官であったイワン・コワレンコは、日本人捕虜をシベリアで労働させようというアイデアはスターリン自身のものであったと証言しています。スターリンは、疲弊したソ連の国民経済復興のために、戦争で得た捕虜の労働力を活用することを、関東軍の降伏前から既に構想していました。ソ連では1930年代から囚人労働を国家建設に利用する強制収容所が全土に広がり、1941年からの独ソ戦で優勢になるとドイツ人捕虜用の収容所建設が本格化。1945年5月のドイツ降伏時には、約350万人ものドイツ人捕虜が各地で使役されていた実績がありました。
日本人捕虜50万人移送と組織化された「極秘指令」
対日参戦のわずか2週間後、1945年8月23日、スターリンは日本軍捕虜のシベリア移送を命じる極秘指令を発令しました。この指令は非常に詳細なものでした。
指令の具体的な内容:
一、極東およびシベリアでの労働に肉体的に耐えうる日本軍捕虜約50万人を選抜すること。
二、捕虜をソ連邦に移送する前に、1000人ずつの建設大隊を組織すること。特に日本軍工兵部隊の若い将校や下士官を、これらの大隊と中隊の指揮官に任命すること。
この極秘指令は、シベリアを中心に数十カ所の建設現場や工場への捕虜割り当てを1000人単位で定め、さらには収容所への燃料や衣服の供給量まで具体的に指示していました。これらの詳細な計画は、日本人捕虜の使役がソ連の対日参戦前から綿密に計画されていたことを明確に裏付けています。また、日本人捕虜向けの「日本新聞」の準備も対日参戦前に始まっており、8月初めにはコワレンコの編集長就任が決定。9月15日には第一号が発行され、捕虜の思想教育まで事前に準備が進められていたことが分かります。
1946年、第二次世界大戦後にシベリア抑留から帰還し、舞鶴港で下船を待つ日本人捕虜たちの様子。
矛盾する電報の存在:対日参戦後の指示
しかし、「シベリア抑留が対日参戦前に決まっていた」というコワレンコの証言とは一見矛盾する内容の文書も発見されています。それは、1945年8月16日付でモスクワからワシレフスキーに宛てられた電報です。
電報の内容:
日本・満州軍の軍事捕虜をソ連邦領土内に移送しない。軍事捕虜収容所はできる限り日本軍の武装解除地に設ける。捕虜収容に関する問題処理と指導のためソ連邦内務人民委員会軍事捕虜担当総局長クリベンコ同志が出張する。
この電報は、捕虜をソ連国内に移送せず、武装解除地に収容所を設けるよう指示しており、スターリンの極秘指令とは異なる方針を示しているように見えます。これは、ソ連内部における対日戦略の変化や、情報伝達の複雑さ、あるいは多層的な計画の存在を示唆しており、シベリア抑留の経緯が単純ではなかったことを物語っています。
結論
シベリア抑留は、第二次世界大戦後の日本人にとって忘れられない悲劇であり、その裏にはスターリンによる捕虜労働の周到な計画が存在していました。約5.5万人もの尊い命が失われたこの出来事は、単なる戦後処理としてではなく、ソ連の国家戦略の一環として深く根ざしていたことが「極秘指令」によって明らかになります。しかし、同時に見つかった矛盾する電報は、この複雑な歴史的経緯における多様な側面を示唆しており、一層の歴史的検証が求められます。
参考文献
- 共同通信社社会部編 (朝日文庫). 『沈黙のファイル 「瀬島龍三」とは何だったのか』