第二次世界大戦終結からおよそ80年が経過し、かつて「大東亜戦争」と称され、「西洋帝国主義からのアジア解放」が謳われたこの戦争は、現在では「日本によるアジアへの侵略戦争」としての認識が一般的となっています。そのため、「大東亜戦争」という呼称自体も、公の場ではあまり使われなくなりました。しかし、個々の日本軍兵士にとって、この戦争の位置づけや意味は、一様ではありませんでした。例えば、敗戦後インドネシアに抑留された陸軍主計中尉・大庭定男氏は、英国軍下のインド兵から「私は、あなた方と同じアジア人だ。必ずインドは独立します」と告げられ、「大東亜戦争は決して無意義ではなかった」と日記に記しています。
このような日本軍人の日記類を丹念に読み解き、戦後の南方抑留が持つ歴史的背景と彼らの実態を明らかにした一冊が、林英一氏著『南方抑留:日本軍兵士、もう一つの悲劇』(新潮選書)です。本書からは、当時のインド兵が日本人に対して抱いていた意外な親日感情や、抑留された日本兵たちが逆境の中で見出した「意味」の探求が垣間見えます。本稿では、同書の一部を再編集し、当時の抑留兵たちの複雑な心理と、彼らがどのように戦後の困難な生活を乗り越えようとしたのかを紹介します。
激変する「大東亜戦争」の評価と兵士個人の葛藤
かつて日本政府が掲げた「大東亜共栄圏」という理想は、戦後、国際社会において「侵略」の歴史として厳しく評価されるようになりました。しかし、戦場に赴き、実際にアジアの地で活動した兵士たちの中には、公式の見解とは異なる複雑な感情を抱く者もいました。特に、敗戦後、インドネシアをはじめとする東南アジア各地で抑留された日本軍兵士たちは、その過酷な境遇の中で、自らの戦争体験と向き合わざるを得ませんでした。
ビルマに抑留された降伏日本兵たち。戦後の南方抑留における日本軍兵士の厳しい状況を示す一枚。
大庭定男氏の事例は、その典型です。彼は、捕虜となった後も「アジア人としての連帯」という概念をインド兵から聞かされ、自身の参戦経験が全くの無意味ではなかったと感じています。これは、「侵略戦争」という後世の評価とは異なる、戦時中の「アジア解放」という側面を彼らが信じていたこと、そして現地の人々との間に特定の関係性や期待が存在していた可能性を示唆しています。抑留という極限状態の中で、彼らがどのように自らの過去を解釈し、未来を見据えようとしたのか、その心理の機微を理解することが、この時代の歴史をより深く知る上で不可欠です。
インドネシア・タンジュン・プリオクでの重労働と「反省」
1946年6月11日、大庭はイギリス軍の輸送機で、ジャワ島タンジュン・プリオクの作業隊へと送られました。当時「ジャワにおいて一番ひどいといわれるこのタンジョンの使役」と言われる過酷な環境にもかかわらず、大庭の心には意外なほど前向きな思いがありました。彼は日記に「タンジョンは我々が過去を反省し未来への出発の思索をなすところである」(1946年6月15日)と記し、この苦難を単なる刑罰としてではなく、自己を見つめ直す機会と捉えていました。
大庭が高木伸雄のペンネームでタンジュン・プリオク作業隊の雑誌『たんじょん』第4号(1946年10月10日発行)に投稿した随想「冬の夜の花」にも、当時の彼の心理が色濃く反映されています。作業隊に到着して間もない頃、「吾々タンジョンに於て何を求むべきや」と隊員同士で話し合った際、修吉という日本兵が「タンジョンは吾々が祖国に帰還する第一歩である。吾々が祖国に帰還するのは祖国再建の為めである。吾々はこのタンジョンを祖国再建の出発基点となさなければならない。タンジョンの生活は之あつてこそ初めてその意義があるのではなからうか」と説いたと書かれています。
修吉はさらに、戦時中の「退嬰的、淫蕩的、消極的な気分」、すなわち酒や色に溺れて後ろ向きな雰囲気を反省する必要があると強調しました。彼は、抑留生活における日々の重労働と劣悪な給養が、まさにその「退嬰的」な心身を鍛え直し、「不撓不屈の精神と肉体を作り出す」機会であると捉えていました。「辛い時にも苦しい時にも吾々はじつと耐へ且つ反省して行かう。重労働と深刻なる反省とが並行するところ、吾々は生れ変つた新しい自己を見出し得るのであろう」という言葉からは、彼らが抑留を自己再生の場と見なし、未来の「祖国再建」へと繋げようとする強い意志が読み取れます。
「加害者」と「被害者」の狭間で:抑留生活に意味を見出す兵士たち
修吉の言葉の中で特に注目すべきは、彼が戦時中の日本軍の行動の「当然の帰結」として抑留を正当なものと見なしている点です。南方地域において、日本兵は抑留の「被害者」であると同時に、占領という行為の「加害者」でもありました。この複雑な立場が、彼らが抑留を全否定できなかった理由の一つと考えられます。彼らは自らの行為の結果としてこの現状を受け入れ、その中に新たな意味を見出そうとしました。
このような認識は、彼らが抑留生活に「祖国再建」という目的を重ね合わせることで、過酷な日々を乗り切るための精神的な支柱を築いたことを示唆しています。単なる苦痛ではなく、未来への投資、自己鍛錬の場として抑留を捉えることで、彼らは自らの尊厳を保ち、希望を失わないように努めたのです。この複雑な心理は、単一の「侵略戦争」という歴史観だけでは捉えきれない、戦争と人間の深い関係性を浮き彫りにしています。彼らの日記や記録は、戦後の混乱期における日本人の精神的葛藤と適応の過程を知る上で、極めて貴重な一次資料と言えるでしょう。
戦後の南方抑留という過酷な経験は、日本軍兵士たちにとって単なる悲劇ではありませんでした。大庭定男氏をはじめとする多くの抑留兵は、その中で自己を見つめ直し、未来の「祖国再建」という大義を見出すことで、自らの存在意義を再構築しようとしました。彼らが「加害者」としての過去と、「被害者」としての現在という二つの側面を抱えながら、いかにして精神的な平静と希望を保とうとしたのか、その複雑な心理は現代に生きる私たちにとっても示唆に富んでいます。林英一氏の『南方抑留:日本軍兵士、もう一つの悲劇』は、そのような兵士個人の視点から歴史を再考する貴重な機会を提供してくれます。過去の出来事を多角的に理解することは、未来を築く上で不可欠な視点であり、この研究はその重要性を改めて浮き彫りにしています。
参考文献:
- 林英一著、『南方抑留:日本軍兵士、もう一つの悲劇』、新潮選書、2025年。
- Yahoo!ニュース (デイリー新潮より): 「大東亜戦争は決して無意味ではなかった」インドネシアに抑留された日本軍兵士の日記に記されていた”意外な親日感情”とは、2025年7月28日公開。