戦後日本に誕生した情報機関「内閣情報調査室」(内調)。その存在は長らくベールに包まれていましたが、特に1950年代から1960年代にかけて、著名な学者や研究者に対して巨額の情報調査委託費がひそかに支払われていた事実があります。なぜ内調は日本のエリート層に多額の資金を提供したのか、その隠された関係性に迫ります。本稿は、岸 俊光氏の著書『内調――内閣情報機構に見る日本型インテリジェンス』(筑摩書房)の一部を抜粋・編集したものです。
戦後日本の情報機関:内閣情報調査室(内調)の黎明期
1952年4月9日、内閣総理大臣官房調査室として新設されたこの機関は、初代室長である村井順(のちの綜合警備保障=ALSOK創業者)ただ一人からその歴史をスタートさせました。村井氏は後に、その設立当初の困難な状況を次のように記しています。「内閣調査室は一応発足したが、実際には私1人が発令されただけである。事務所もない、予算もない、部下もいないという『ないないずくし』の有様であった。(中略)まず何よりも先に事務所を探さなければならない。私は総理官邸の中を隅から隅まで調べて廻った。そして物置代りになっていた古い日本間を発見し、これを事務室に使わしてもらうことにした。ついで大ホールの脇にある小さな控え室をあけてもらって室長室とした」。
事務所確保に続き、予算の調達も大きな課題でした。年度当初であったため、翌年度予算まで待たねばならない状況で、当時の保利茂官房長官に懇願し、予備費の中からようやく500万円の確保に成功しました。これは十分な活動を行うには程遠い額でしたが、「無いよりはまし」との思いで受け取ったとされています。結局、1952年度の最終的な予算は、報償費300万円、旅費50万円、庁費200万円、会議費100万円の合計650万円となりました。翌1953年度には総額1億3466万2000円が内定していましたが、衆議院解散(いわゆる「バカヤロー解散」)の影響で暫定予算となりました(「吉原資料」所収「内閣総理大臣官房調査室に関する事項」より。吉原資料とは、内閣調査室を批判していた作家・ジャーナリストの吉原公一郎が所有していた未公刊の資料です)。
内閣情報調査室(内調)予算の推移:増大する情報調査委託費
吉田茂首相が内閣総理大臣官房調査室を新設した際のメンバーの一人である志垣民郎が所有していた未公刊の資料「志垣資料」所収の文書「業務概要」などから、内閣調査室の予算推移を追うことができます。その後、内閣調査室の予算は右肩上がりに増加していきますが、特に注目すべきは「情報調査委託費」の割合が目立って大きくなった点です。
筆者が内閣情報調査室に対し、昭和27年度から令和6年度までの各年度の当初予算およびその内訳に関する行政文書の開示請求を行ったところ、平成24年度から令和6年度の当初予算額の推移等は開示されました(閣情23144号、令和6年12月24日)。しかし、それ以前の予算額については、「文書が保存されておらず、作成していたかどうかも確認できない」との回答でした。
内部資料から見ると、内閣調査室の当初予算は1956年度に初めて1億円を超え、1億2228万2000円に達しました。このうち情報調査委託費は8301万9000円で、全体の67.9%を占めています。さらに、1958年度には当初予算1億4925万9000円に対し、情報調査委託費が初めて1億円を突破し、1億600万円でその割合は71.0%となりました。1960年代に入ると、この委託費の支出は「黄金期」を迎え、1966年度には当初予算5億9535万2000円のうち、情報調査委託費が5億5849万5000円と、驚異的な93.8%にまで達しています。
このデータは、内閣情報調査室がその活動の大部分を、外部の学者や研究者への「委託」という形で推進していたことを明確に示しています。戦後の混乱期から高度経済成長期にかけて、日本の情報機関がどのように機能し、どのような層と関係を構築していたのか、その一端がこの巨額な委託費の推移から垣間見えます。
結論
内閣情報調査室(内調)は、その設立当初の困難な状況から、情報調査委託費を主要な活動資金として急速に発展しました。特に1960年代には、予算の大半が情報調査委託費として運用され、多くの著名な学者や研究者がその対象となっていたことが明らかになりました。この事実は、内調が日本の知的エリート層との間に深い協力関係を築き、それが戦後日本の情報活動の中核を成していたことを示唆しています。内調の存在は今なお多くの秘密に包まれていますが、この委託費の歴史は、その初期の活動様態と、情報収集における独特の「日本型インテリジェンス」の一側面を解き明かす重要な鍵と言えるでしょう。
参考文献
- 岸 俊光『内調――内閣情報機構に見る日本型インテリジェンス』筑摩書房、2024年。