96歳森田富美子さんが語る長崎原爆の記憶:「私は16歳でした」

「私は16歳でした」――。1945年8月9日、長崎に投下された原子爆弾により家族を失い、自らも被爆した森田富美子さん(96)は、その時の記憶を語り始める際に最初にこの言葉を口にした。向き合うのが困難な、長年封印してきた記憶を、それでも森田さんはどうにか語ろうと決意したという。96歳になった現在、娘・京子さんとの共著『わたくし96歳 #戦争反対』で、彼女は人生の記憶を振り返っている。

封印された記憶と「#戦争反対」の決意

森田さんは「戦争のことは絶対に話さない、話せないとずっと思っていました」と打ち明ける。しかし、90歳になった時、「話そう、語り部をしよう」と決意したという。80年前のあの日、長崎に投下された原爆によって5人もの家族を一度に失った森田さんの口は、重く開かれた。X(旧Twitter)で8万5000人を超えるフォロワーを持ち、「#戦争反対」のメッセージを発信し続ける森田さんだが、実は91歳になるまで被爆体験について詳しく語ることはなかった。「私は戦争のことは考えないようにしてました。その時の状況はあまり人に話したくないのと……」と、その理由を語る。

富美子さんが16歳だった1945年の夏、長崎はすでに原爆投下前から5回の激しい空襲を受けていた。彼女の父親は、毎日のように「空襲警報」「空襲警報解除」をメガホンで叫びながら近所を回っていたという。森田さんの実家は、爆心地からわずか約200メートルの駒場町(現在の長崎市松山町)にあった。

1945年8月9日の朝:母との別れ

1945年8月9日の朝。富美子さんは、いつも通り学徒動員先の川南工業香焼島造船所へと向かおうとしていた。松山町停留所から路面電車で大波止まで行き、そこから船に乗って香焼島へ渡る。家から工場までは片道約1時間の道のりだった。

この日の朝も、「行ってきます」と言いながら玄関へ向かう富美子さんの下駄を、1番目の弟(国民学校5年生)が横取りして履き、逃げるように飛び出していった。「また友だちとダクマ(川エビ)獲り。私はこれから工場に行かなければならないのに、それがわかっているはずなのに」。無性に腹が立った富美子さんの足元に、母親はそっと新しい下駄を置いてくれた。それは赤い鼻緒の下駄だった。母は穏やかに微笑みながら言った。「これっきりの別れになるかもしれないから、さあ機嫌をなおして早く行きなさい」。それでも黙って玄関を出ようとする富美子さんに、母は念を押すように再び告げた。「プンプンしないで。これが最後かもしれないんだから」。その言葉が、母との最後の会話となった。

森田富美子さん、長崎原爆の被爆体験を語る語り部の姿森田富美子さん、長崎原爆の被爆体験を語る語り部の姿

森田富美子さんの被爆体験は、原爆の恐ろしさ、戦争がもたらす深い悲しみと、それが個人の人生に刻む消えない傷を鮮明に伝えている。彼女が長年の沈黙を破り、自らの体験を語り始めたことは、平和の尊さを次世代に伝える重要な使命感を反映している。被爆者の声は、二度と過ちを繰り返さないための、何よりも雄弁なメッセージとなるだろう。

参考文献