日本軍によるシンガポール華僑粛清の実態:消えゆく戦争の記憶を辿る

戦後80年が経過し、戦争を直接体験した世代が少なくなる中で、私たちは歴史とどう向き合うべきでしょうか。戦争の記憶が風化しつつある今こそ、過去の「証言」と「記録」を未来へと語り継ぐことの重要性が増しています。本記事では、日本軍が第二次世界大戦中に占領地で行った加害行為の一つ、「シンガポール華僑粛清」の実態に焦点を当てます。

シンガポール中心部には「血債の塔」と呼ばれる慰霊碑が静かに佇んでいます。この塔は、戦時中に日本軍によって命を奪われた数えきれない人々の遺骨が安置されている場所です。かつてこの地で起きた悲劇は、多くの人々の心に深い傷を残しました。

日本軍による東南アジアでの華僑粛清を象徴する歴史的な一枚日本軍による東南アジアでの華僑粛清を象徴する歴史的な一枚

生き証人、沈素菲さんの証言

その悲惨な歴史を幼き日の記憶として語り継ぐ一人が、現在89歳の沈素菲さんです。沈さんは、日本軍がシンガポールに侵攻した際の出来事を鮮明に覚えていると語ります。「具体的な月日は覚えていませんが、日本軍がシンガポールに入ってきて3日目の日は覚えています。日本軍がシンガポールの人々を殺しに来たのです。」彼女は、銀行員として勤勉に働いていた父との唯一の家族写真を見せながら、当時の絶望を口にしました。「父は家で私の帰りを待ち続けましたが、二度と家に戻ることはありませんでした。」沈さんの証言は、戦争の非人道性を生々しく伝えます。

日本軍の東南アジア侵攻と華僑への警戒

1941年12月8日の真珠湾攻撃を皮切りに、アメリカとの全面戦争に踏み切った日本は、その直前から東南アジア・マレー半島への奇襲作戦を展開していました。この地域の豊富な石油やゴムなどの資源確保は、長期化する戦争を継続するための喫緊の課題でした。日本軍はわずか2カ月という驚異的な速さでマレー半島を攻略し、東南アジアの貿易拠点であったシンガポールを陥落させ、その支配下に置きました。

この占領過程で、日本軍が特に警戒したのが、シンガポールに多く暮らしていた中国大陸からの移住者、いわゆる「華僑」の存在でした。当時「マレーの虎」として知られた第25軍司令官・山下奉文は、その陣中日誌に「作戦地住民の過半は、華僑にして、特に経済的実権はほとんどその手中にあり。而して敵性を有するものは断固膺懲す(懲らしめる)」と記しています。

粛清の背景にある「中国支援」

日本と中国は日中戦争を通じて敵対関係にありました。戦況が泥沼化する中、日本軍は中国本土を支援していると見なしていたのが華僑でした。沈素菲さんもまた、その記憶を共有しています。「私の周りの華僑は花を売り始め、あちらこちらで一輪一輪売って歩いていました。次第にたくさんの人が協力し、花を売って義援金を募り、中国を援助したのです。それで日本軍は、シンガポール人(華僑)を恨むようになったのです。」このように、華僑が中国への義援金活動を行っていたことが、日本軍による大規模な「華僑粛清」へと繋がる直接的な要因の一つとなったと考えられています。この粛清によって、シンガポールの多数の華僑が不当に殺害され、その数は数万人に上るとも言われています。

過去の事実から未来への教訓を

シンガポール華僑粛清は、「人間がやることではない」と形容されるほどの残虐行為であり、日本が過去に行った加害行為の重大な側面を示しています。戦争の記憶が薄れていく中で、こうした歴史的事実から目を背けることなく、その詳細を学び、検証し続けることは、平和な未来を築く上で不可欠です。沈素菲さんのような貴重な証言や当時の記録を通じて、私たちは歴史の教訓を深く理解し、二度と同じ過ちを繰り返さないよう、次の世代へと継承していく責任があります。


出典:

  • Yahoo!ニュース(テレビ朝日系)