芥川龍之介や太宰治といった、日本文学史に燦然と輝く文豪たちが活躍できた背景には、一人の稀代のプロデューサーの存在がありました。その人物こそ、小説家、雑誌編集者、そして経営者としてマルチな才能を発揮した菊池寛です。彼の名は芥川や太宰ほど広く知られていないかもしれませんが、日本の文芸界におけるその功績は計り知れません。多くの若い才能を見出し、世に送り出しただけでなく、自らも大衆小説で人気を博し、さらには出版社の礎を築いた彼の生き様は、現代のビジネスパーソンにとっても学ぶべき点が多い「教養」となり得ます。
日本文芸界に不可欠な「名プロデューサー」
川端康成や三島由紀夫など、後世に語り継がれる偉大な作家たちが活躍できたのは、菊池寛という名プロデューサーの支えがあったからに他なりません。彼は若き日の文豪たちの才能をいち早く見抜き、執筆の機会を与え、時には経済的な援助を惜しまず、彼らが創作に専念できる環境を整えました。まさに、日本の文芸界において、菊池は欠かせない存在だったのです。小説家としての知名度は、彼が送り出した作家たちに及ばないかもしれませんが、その影響力と貢献度は日本の文学史を語る上で不可視にできません。
小説家、プロデューサー、そして経営者:菊池寛の多才な顔
菊池寛は、その生涯で実に多彩な顔を見せました。単なる小説家にとどまらず、文芸芸術のプロデューサーとして多くの才能を育成。さらに、著名人のスキャンダルやスクープで知られる『週刊文春』を生み出した出版社「文藝春秋」の創設者でもあります。彼は自身も人気作家として活躍し、特に大衆向けの新聞小説『真珠夫人』は大ヒットを記録しました。一時は芥川龍之介よりも人気が高かったとさえ言われるほどです。
菊池の人生を深く紐解くと、彼がいかにビジネスパーソンとして優秀であり、また並外れた努力家であったかがわかります。何をやらせても一流だったと言っても過言ではない彼の姿は、現代社会における「副業」や「複業」が当たり前となったビジネスパーソンにとって、まさに理想的なロールモデルと言えるでしょう。一つの職場や役割に依存せず、多様な才能と情熱を注ぎ込んだ彼の生き方は、私たちに大きな示唆を与えてくれます。
マルチな才能を発揮し、文豪たちを支えた菊池寛の肖像イラスト。
逆境を乗り越えた幼少期と「本の虫」
菊池寛の幼少期は、決して恵まれたものではありませんでした。1888年、香川県香川郡高松(現・高松市)に七人兄弟の四男として生まれ、父親は小学校の庶務係、母親は内職をして家計を支えました。菊池自身、「少年時代は貧乏で嫌な思い出しかない」と語るほど、経済的な苦境の中で育ちました。しかし、この境遇が彼を稀代の「本の虫」へと駆り立てます。中学3年生の時に地元にできた公共図書館は、彼にとっての宝の山でした。約1万8000冊という膨大な蔵書を、文学から歴史に至るまで片っ端から読み漁り、その後の文学人生の基礎を築いたのです。
波乱に満ちた学生時代:七転び八起きの遍歴
菊池は成績優秀でしたが、その学生生活は波乱万丈でした。中学卒業後、学費免除で東京高等師範学校(現・筑波大学)に入学するも、教師になる気はなく、授業を怠けて芝居見物やテニスに興じた結果、除籍処分に。その後、地元の大富豪に将来を見込まれて養子縁組し、経済的支援を受け明治大学法学部へ進学しますが、わずか3ヶ月で退学してしまいます。さらに兵役を逃れるため早稲田大学に籍を置きつつ、第一高等学校(現・東京大学教養学部)の受験準備をしますが、これが養父に露見し、養子縁組を解消されるという事態に。
しかし、実家の父親が貧しいながらも借金をして学費を送ると申し出てくれたことから、菊池は22歳で第一高等学校第一部乙類に合格。しかし卒業間際、盗品と知らずにマントを質入した「マント事件」により再び退学処分となってしまいます。まさに七転び八起きの、劇的な学生遍歴です。
小説家への第一歩
幾多の困難を乗り越え、菊池は京都帝国大学文学部英文科に入学します。旧制高校卒の資格がないため、当初は「選科」として一部の学課のみを学ぶことになりました。しかし、この時期に短編小説『禁断の木の実』を書き上げ、日刊紙『萬朝報』の懸賞に応募したところ見事当選。これを機に、菊池寛は小説家としての第一歩を踏み出しました。その翌年には、旧制高校の卒業資格検定試験に合格し、晴れて京都帝国大学文学部英文科の本科に進むことができたのです。彼の人生は常に逆境と挑戦の連続でしたが、その度に新たな道を開き、日本の文芸界に多大な足跡を残しました。
参考文献:
- 『ビジネスエリートのための 教養としての文豪』(ダイヤモンド社)より一部抜粋・編集