推計約603万人に上る精神疾患患者が日本に存在するとされる一方で、適切な医療サービスにアクセスできない人々、そしてその家族は、心身的・経済的に過酷な負担を強いられています。株式会社トキワ精神保健事務所所長の押川剛氏は、長年「精神障害者移送サービス」を通じて多くの現場と向き合い、その実態を社会に訴え続けてきました。彼の活動と思いが込められた漫画『「子供を殺してください」という親たち』(原作:押川剛、作画:鈴木マサカズ/新潮社)が描く、精神障害を抱える家族の葛藤と、現代日本が直面する医療アクセスの課題について深く掘り下げます。
「精神障害者移送サービス」の30年:知られざる苦闘と社会の課題
私が携わってきた「精神障害者移送サービス」は、病識のない重篤な精神疾患患者とその家族が抱える問題を解決し、医療へとつなげることを目的としています。この30年間、「無理やり医療につなげている」「人権侵害だ」といった批判も著名な専門家から絶え間なく寄せられてきました。しかし、重篤で対応が困難な精神疾患患者をいかに医療へと導くか、という「医療アクセス」の課題は、私がこの仕事を始めた1996年以前から今日に至るまで、依然として深刻な問題として存在し続けています。
当事者に病識がない場合、家族は往々にして本人を「恥ずべき存在」と見なし、自宅に引きこもらせ、その実態をひた隠しにする傾向がありました。これはまるで因習ともいえるような状況です。私はこの因習に抗い、患者本人だけでなく、家族をも説得して医療機関へとつなげる活動を続けてきました。そして、その過程で見てきた現実をマスメディアを通じて発信してきたことが、この30年の私の歩みそのものです。
精神疾患患者の家族の苦悩を描いた漫画「子供を殺してください」という親たち 表紙。原作:押川剛、漫画:鈴木マサカズ(新潮社)
「本人の意思尊重」の陰で深まる家族の孤立:改正精神保健福祉法の課題
医療アクセスの課題は未解決であるばかりか、「脱施設化・地域移行」の政策が推進される中で、病識のない精神疾患患者に対してさえ「本人の意思を尊重せよ」という風潮が強まりました。周囲が「このままでは事件になる」と感じるほどの病状であっても、当事者に病識がなく、治療を受ける意思がなければ、それを理由に誰も介入できなくなっているのが現状です。
さらに、2014年に施行された改正精神保健福祉法は、保護者が患者に治療を受けさせる義務をなくしました。保護者の負担軽減が趣旨であったものの、これにより家族には精神疾患患者を医療につなげる法的根拠も手段も残されていません。結果として、家族や近隣住民との間で悲惨な事件が起きて初めて、医療への道が開かれるという皮肉な状況に陥っています。殺人事件に至ったとしても、刑事責任能力なしと判断されれば医療観察法によって手厚い治療が施されるのですから、この国の「地域移行」の現実が「事件化させて司法に投げる」という仕組みを完全に作り上げてしまったと言わざるを得ません。
「子供を殺してください」という親たち:社会変革への警鐘
このような日本の精神医療の現実を描くため、漫画『「子供を殺してください」という親たち』のコミカライズにあたり、私は「事実をそのまま、赤裸々に描く」というただ一つの条件を出しました。近年の事件報道を見れば明らかですが、精神疾患が未治療のまま放置され、妄想などの症状が重篤化すれば、動物どころか人への傷害や殺人にまで発展するケースも少なくありません。
しかし、一筋の光明もあります。長らく秘匿されてきたこの実態に、国民が気づき始めたことです。読者の中にも、近隣、職場、あるいは家庭内で、命の危険を感じるような事案を抱えている方がいるのではないでしょうか。漫画『「子供を殺してください」という親たち』は累計200万部を超え、類似の事件が起こるたびにSNS上では「押川案件」というコメントが並ぶようになりました。私にとっては「やっとスタートラインに立てた」という感覚です。つまり、長く訴え続けてきた社会問題に、ようやく社会が追い付いてきたのだと感じています。だからこそ、このコラムではこれまで奥歯に物が挟まるような言い方をしてきたことも、一層の覚悟をもって綴っていきたいと考えています。
新井慎介ケース:困難な支援と「つながり」の価値
今回紹介したケース1の登場人物である新井慎介の家族は、漫画に描かれている通り、社会的に高い能力を持つ方々でした。私たちが慎介さんの一生を引き受けることによって、ご家族は社会のためにその使命を果たすことができたのです。そして私自身も、慎介さんを医療につなげたことをきっかけに、彼とは今も人間的なつながりを持ち続けています。この二つの意味において、私自身も微力ながら社会の役に立つことができたのではないかと自負しています。
精神疾患とその家族が抱える問題は、個人の範疇を超えた社会全体の課題です。病識のない患者への医療アクセスをどう確保し、家族の負担を軽減するかは、依然として私たちの社会が真剣に向き合うべき喫緊のテーマと言えるでしょう。押川剛氏の活動とメッセージが、より良い精神医療の実現に向けた社会変革の一助となることを願っています。