公明党が連立政権から離脱し、新たに日本維新の会が与党入りした高市政権が21日に発足しました。この異例の政権交代は、日本の政治地図に新たな局面をもたらしています。ジャーナリストの尾中香尚里氏は、かつて自民党と連立を組んだ多くの政党が最終的に消滅の憂き目に遭ってきた歴史を指摘し、このリスクを承知の上で与党入りした日本維新の会の選択に注目しています。本稿では、高市政権発足の背景と、日本維新の会が「ゆ党」としての立場を捨てて「与党」となったことの意味、そして今後の政局への影響を深く掘り下げます。
連立政権合意書に署名後、報道陣に示す高市早苗自民党総裁と吉村洋文日本維新の会代表
「ゆ党」から「与党」へ:日本維新の会の転換
高市早苗内閣の21日の発足は、7月の参院選から3カ月以上にも及んだ政治空白を経て実現しました。この長い期間は、自民党という一政党の内部事情によって引き起こされたものであり、その経緯は決して看過できません。しかし、今回の高市政権発足を野党側の視点から見れば、それは「日本維新の会の与党入り」であり、これまで「第三極」や「ゆ党」と呼ばれてきた政党の大きな転換点を意味します。
自民党総裁選から高市内閣発足に至るまで、日本維新の会と国民民主党という二つの「ゆ党」は、自民党に接近し、「連立政権入り競争」を繰り広げました。結果として、日本維新の会は「与党」の一員となり、「ゆ党」の立ち位置を捨てました。一方、この競争に取り残された国民民主党は、その存在感を大きく失うことになったのです。高市内閣発足の陰に隠れがちですが、この「ゆ党」たちの連立入り競争の顛末を振り返ることは、今後の日本政治を理解する上で非常に重要です。
連立の舞台裏:なぜ維新が選ばれたのか
参院選での自民党の惨敗を受けて、高市内閣発足までの政界の焦点は、自民党がどのようにして連立の枠組みを拡大できるかにありました。自民党は総裁選の最中から、野党第2党である日本維新の会と、第3党の国民民主党を事実上名指しして、連立への協力と秋波を送り続けていました。
筆者は、総裁選が小泉進次郎農相(当時)と高市氏の構図となりつつあった9月25日の記事で、おおむね以下のような指摘をしていました。日本維新の会は小泉氏とその強力な後見人である菅義偉元首相に近い一方、国民民主党は高市氏とその背後に控える麻生太郎元首相に近いという、両党が自民党内の「政局の道具」となっている側面がありました。しかし客観的に見れば、小選挙区での候補者調整がしやすい日本維新の会の方が、連立入りしやすい状況にあったと分析していました。
街頭演説を行う国民民主党の玉木雄一郎代表
実際に連立入りしたのは、やはり日本維新の会でした。当初の「小泉―菅ライン」が敗れ、高市氏が総裁になったにもかかわらず、自民党は国民民主党ではなく日本維新の会を連立相手に選びました。この選択の背景には、公明党が10日、連立からの離脱を決めたという決定的な理由が存在しました。公明党の離脱が、自民党の連立戦略を大きく変更させ、日本維新の会が与党入りする道を開いたのです。
連立入りがもたらすもの:歴史的視点と今後の展望
日本維新の会が与党入りした高市政権の誕生は、今後の日本の政治動向に大きな影響を与えるでしょう。ジャーナリストの尾中香尚里氏が指摘するように、歴史を振り返れば、自民党と連立を組んだ多くの小政党が、最終的には党勢を失い、消滅の憂き目に遭ってきました。日本維新の会が、この歴史的なリスクを承知の上で与党入りを選択したことは、これまでの「ゆ党」とは一線を画す異例の行動と言えます。
「第三極」としての立ち位置を捨て、「与党」の一員となった日本維新の会は、今後、自民党との連携の中で独自の政策理念をどこまで維持できるかが問われます。また、国民民主党が連立入り競争から脱落し存在感を失ったことで、野党間の勢力図にも変化が生じる可能性があります。高市政権下での日本維新の会の役割と、それがもたらす日本の政治情勢の変容は、今後の政治ニュースの主要な焦点となることは間違いありません。
結論
高市政権の誕生と日本維新の会の連立入りは、公明党の離脱という劇的な展開を経て、日本の政治における新たな章を開きました。この動きは、かつて「第三極」や「ゆ党」と呼ばれた政党が、「与党」へと変貌を遂げる歴史的な瞬間を示しています。日本維新の会がこの選択によってどのような未来を切り開くのか、そしてその選択が日本の政治全体にどのような影響を与えるのか、私たちは引き続きその動向を注視していく必要があります。





