日本の政界に「女性初の首相」誕生の可能性が現実味を帯びる中、高市早苗氏の名前が常にその中心にあります。もし高市氏がその座に就けば、それは日本政治における画期的な出来事であり、彼女が性別ではなく政策と実力で宰相の地位を掴み取った大偉業と言えるでしょう。この歴史的な転換期を社会はどう受け止め、また、一部で囁かれる「女性なのに保守」といった批判にはどう向き合うべきなのか。元衆院議員の山尾志桜里氏が、自身の経験と視点から、この問題に鋭く切り込みます。
山尾志桜里元衆院議員が高市早苗氏のリーダーシップについて見解を述べる
「女性なのに保守」という批判は「男女差別」である
高市早苗氏がもし初の女性総理に選ばれたとして、彼女の「保守」という政治的立場に対して、一部の女性政治家や有識者から失望の声が上がっているのは、私には自己矛盾に映ります。リーダーにどのような価値観を求めるかは個人の自由ですが、普段「女性は女性らしく」という固定観念を批判する人々が、「女性のリーダーはリベラルであるべき」という新たな価値観を押し付けるのは、まさに男女差別以外の何物でもありません。「女性なのに」という枕詞をつけることは、その差別をさらに助長するものです。
女性宰相としてよく引き合いに出されるのが、ドイツのアンゲラ・メルケル元首相です。2005年から16年もの長きにわたりドイツを率いた彼女は、任期末期まで自身をフェミニストと呼ぶことを拒んできました。これは、指導者としての求心力を維持するためには「女性の代表」というレッテルは不要であり、実力と政策で勝負することこそが統治の生命線であるという、彼女の政治家としての本能的な洞察があったからでしょう。メルケル氏はその社会構造を見抜き、実行し、長期政権を築き上げました。
「女性代表」ではない、「全国民のための総理」としての高市氏
実は日本の永田町でも、多くの女性政治家がこの社会構造を本能的に感じ取っています。「女性の声を国政に!」という打ち出しは、選挙を勝ち抜く上では有効かもしれませんが、リーダーシップを発揮し、政権の中枢を担う上では必ずしも有利に働かない現実があります。多くの女性政治家がこの悩みを抱えつつも、妥協や工夫を重ねてキャリアを積んできました。
その中で高市氏が頭一つ抜きん出たのは、「女性代表」という枠に収まることなく、政策本位・実力勝負の戦略を明確に描き、それを本気で実行してきた点です。経済や国防といった硬派な政策分野に焦点を当てた発信をコツコツと続け、政治家としての揺るぎない像を築き上げてきた努力の宰相と言えるでしょう。男性総理が「男性のための総理」ではないのと同様に、女性総理もまた「女性のための総理」ではないのですから、高市氏のこの戦略は極めて正しいと私は考えます。
その上で、もし高市氏が首相の座に就くならば、ここから期待したいのは「全国民のための総理」となるべく、保守政治家としての懐を深くすることです。政治が国民一人ひとりの「生きづらさ」に真摯に向き合い、困り事を解決していけば、国民の間には自然な形で愛国心が育まれるでしょう。それが、いざという時に国家としての連帯につながる基盤となるのです。
本稿は、山尾志桜里元衆院議員の寄稿を基に構成されています。





