石原慎太郎氏逝去の裏側:長男・伸晃が明かす「父の最後の瞬間」と家族の絆

2022年2月1日、「石原慎太郎死去」の速報が日本中を駆け巡りました。日本の政治、文学界に多大な足跡を残した石原慎太郎氏の突然の訃報は、残された家族に深い悲しみと衝撃を与えました。特に長男である石原伸晃氏は、父との最後の瞬間をどのように過ごし、その死をどのように受け止めたのでしょうか。本稿では、四兄弟がそれぞれの視点から父への思いを綴ったエッセイ集『石原家の兄弟』(新潮社)から一部を抜粋し、父を失った日の知られざるエピソード、そして家族にとっての「父の存在の大きさ」を詳細にお伝えします。

作家・政治家として知られる石原慎太郎氏。晩年を振り返る長男・伸晃氏の言葉作家・政治家として知られる石原慎太郎氏。晩年を振り返る長男・伸晃氏の言葉

突然の訃報、淡路島での衝撃

令和4年2月1日午前10時20分、石原慎太郎氏は永眠しました。その時、長男の石原伸晃氏は淡路島に滞在しており、日本神話でイザナギノミコトが黄泉の国から帰還し、その役割を終えたとされる終焉の地、伊奘諾神宮へ向かう途中でした。車中で妻が携帯電話を見て「石原慎太郎死去って速報が!」と叫んだ直後から、伸晃氏の携帯には各方面から次々と着信が入り始めました。

過去に何度か誤報があったため、にわかには信じがたい心境の中、末弟の延啓氏からの電話に出ると、普段とは異なる緊迫した声で「兄貴、お父さんがつい先程亡くなりました。一刻も早く田園調布の実家に戻って下さい」と告げられました。伸晃氏は「とうとうこの時が来てしまったのか」という緊張感と胸の動悸を押し鎮め、急遽伊丹空港から東京へ向かったといいます。

家族で支えた最期の正月:父と酌み交わした「最後の酒」

父が逝くほんのひと月前の正月、石原慎太郎氏はまだ元気な様子を見せていました。当時、母が入院中で不在だった自宅で、付き添いと二人きりで過ごすのを寂しがり、駄々をこねたため、四兄弟で大晦日から正月三が日にかけて泊まりがけの「親父シッターローテーション」を組むことになったのです。

伸晃氏が担当したのは2日の夜でした。昼間は寝ていた父が夜になると活発になり、深夜2時ごろには「おいおい、酒飲もうぜ。ブランデー注いで来い」と伸晃氏を起こしました。父は嬉しそうにグラスを受け取り、さすがに飲み干すことはなかったものの、その雰囲気と香りを慈しむようでした。丑三つ時のバータイムの会話は、脈絡なく繰り広げられました。「伸晃、お前の幼稚園の時の運動会に参加したよな」という昔話や、「お前が大学生の時連れてきたガールフレンドの名前はなんだったっけか」といった記憶の確認、「パラオで突いた鯛はデカかったなぁ」といった冒険談など、ハードボイルドとは異なる、しみじみとした良いひと時が流れました。伸晃氏にとって、これが父と酌み交わした最後の酒となったのです。

衰えゆく父の姿と、見守る家族の葛藤

嫁や孫たちも代わる代わる顔を見せ、穏やかに過ごしたその翌週、父の体調に変化が現れました。ラーメンをどんぶり一杯食べた後、腹を下したのがきっかけかは定かではありませんが、その頃からめっきり弱っていったように感じられたといいます。日中はアイマスクを装着してずっと寝ていることが多くなり、会いに行ってもほとんど会話ができなくなりました。入院中の母が見舞いに来ても喜ばず、殊更に壁を向いて寝ていたのも、体調の悪さからくるものだったのでしょう。

1月11日には、腹膜に転移した癌の症状を抑えていた鎮痛剤の効果が薄れてきたせいか、父は強い痛みを訴え始めました。元々痛みに弱いということもあり、「何とかしてくれ」と怒鳴り、すがる姿に、伸晃氏は何もしてあげられない無力感に襲われ、泣きたい思いをしました。それでも、弟の良純氏が「屋上から突き落としてくれ」と懇願された時の心情よりは、遥かにましだったと感じています。見るに見かねて鎮痛剤の投与を増やしてもらった結果、20日過ぎには呼びかければ一瞬薄目を開けるものの、反応はほとんどなく、身体はそこにあるものの、魂が抜け去ってしまったような心許ない気持ちでその寝姿を見守る日々が続きました。

石原慎太郎氏の最期の数週間は、家族にとって深い苦悩と愛情が交錯する時間でした。激動の生涯を送り、常に注目を集めてきた巨星が、その晩年に見せた弱さと、それを支え見守る家族の姿は、多くの人々に人間としての普遍的な感情を問いかけるものでしょう。


参考資料:

  • 『石原家の兄弟』(新潮社)