徳川家康の「対豊臣政策」なぜ慶長13年に急転換したのか?謎深まる背景と新説に迫る

慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦後、天下を掌握した徳川家康は、豊臣家との関係を共存路線で維持してきました。婚姻を通じた関係強化を図るなど、表面上は融和的な態度を見せていたのです。しかし、慶長13年(1608年)を境に、家康の豊臣家に対する態度は急速に冷え込み、やがて豊臣家滅亡へと繋がる「大坂の陣」を引き起こすことになります。家康が孫娘の嫁ぎ先でもある豊臣家に対し、これほどまでに厳しい姿勢に転じた背景には何があったのでしょうか。この方針転換の謎は、長らく専門家の間でも議論の的となってきました。

徳川家康の肖像画(模本)。慶長13年以降、豊臣家への政策転換を迫った家康の動向を巡る謎に迫る。徳川家康の肖像画(模本)。慶長13年以降、豊臣家への政策転換を迫った家康の動向を巡る謎に迫る。

慶長13年、家康の対豊臣態度が豹変

徳川家康による対豊臣政策は、慶長13年を境に劇的に悪化し、露骨な敵対姿勢を鮮明にしていきました。慶長11年には、将軍の居城である江戸城の普請(工事)において、豊臣秀頼の家臣を家康の家臣と並ぶ形で普請奉行として迎え入れるという異例の厚遇を見せていたことと比較すると、慶長13年以降の態度はまさに180度異なるものでした。

何がこのような激しい変化をもたらしたのか、その具体的な要因はこれまで明確ではありませんでした。たとえそれまでの家康の融和的な態度が表面的なものに過ぎなかったとしても、これほどの急変には何らかの理由付けが必要です。豊臣家側との間に、明確な紛争や確執が存在したはずですが、歴史記録からはその真相が定かではないのです。

豊臣包囲網の露骨な構築

将軍の居城たる江戸城の普請に秀頼の家臣を招き入れたことは、たとえその裏に家康の真意があったとしても、豊臣家への破格の敬意、あるいは主君筋に対する礼節と解釈できるでしょう。これに対し、慶長13年以降は要塞型城郭の整備を通じた、明らかに豊臣家を囲い込むための戦略的な動きが目立ち始めます。これはまさに激変と呼ぶにふさわしい方針転換でした。

関ヶ原合戦後の徳川家の領地配置原則として、京都から西の地域には譜代大名を置かないという方針が一貫していました。しかし、慶長13年6月、丹波国八上城主であった前田茂勝(豊臣奉行・前田玄以の子)が発狂を理由に改易された後、空き地となったその領地は一時領主不在の状態が続きます。しかし同年9月、常陸国笠間5万石の城主であった松平(松井)康重が、後釜として5万石でこの丹波の地に封じられました。

関ヶ原合戦後の日本の領地配置図。徳川家康の対豊臣政策の変遷を読み解く上で重要となる全国の勢力図。関ヶ原合戦後の日本の領地配置図。徳川家康の対豊臣政策の変遷を読み解く上で重要となる全国の勢力図。

これは関ヶ原合戦後、初めて徳川の譜代大名が京都から西の畿内地域に封じられた事例であり、豊臣家への警戒感を如実に示すものでした。康重は当初、前田の八上城を改修しようとしましたが、地形的に不適合であったため、家康の命により翌慶長14年には八上城を廃城とし、新たに丹波篠山の地に堅固な城郭を築くこととなります。この丹波篠山城の築城は、畿内における豊臣包囲網を強化する重要な戦略的拠点となりました。

畿内方面の城郭配置図。慶長13年以降に構築された豊臣包囲網、特に丹波篠山城築城の戦略的意図を示す。畿内方面の城郭配置図。慶長13年以降に構築された豊臣包囲網、特に丹波篠山城築城の戦略的意図を示す。

転換点の謎と新たな仮説

このように、慶長13年を境に家康の対豊臣政策は劇的に変化し、明確な敵対姿勢へと移行していきました。その理由については様々な見解がありますが、国際日本文化研究センター名誉教授の笠谷和比古氏が新刊『論争 大坂の陣』(新潮選書)の中で指摘する「駿府城の2度にわたる火災事件」が、この急転換の背後に潜む可能性として注目されています。表面的な政治的な動きだけでは見えにくい、より深い家康の心境や情報、あるいは何らかの決定的な事件が、この方針転換の引き金となったのかもしれません。この謎の解明は、大坂の陣に至る歴史的背景を深く理解する上で不可欠な要素と言えるでしょう。

参考文献