2020年のアブラハム合意に見られるイスラエルとアラブ諸国の国交正常化、そして2023年のサウジアラビアとイランの国交回復。これらの出来事は、日本の多くの人々にとって驚きをもって受け止められましたが、東京大学公共政策大学院の鈴木一人教授は、中東情勢を正しく理解するためには、各国の持つ「ニュアンス」こそが極めて重要だと指摘します。表面的な国家間対立の構図だけでは見えてこない、複雑で多層的な中東の現実を深掘りします。
日本における「中東情勢」理解の偏り
日本は長らく石油輸入において中東に大きく依存してきたため、中東情勢を見る目がエネルギー問題の枠組みに偏りがちです。国際政治学における地域研究としての中東研究は存在するものの、言語や文化、特にイスラム教やユダヤ教といった宗教的要素に注目しすぎて、多角的な視点を見失う傾向があります。
さらに、日本のメディアにおける中東の報道は、しばしば状況を単純化しすぎると鈴木教授は警鐘を鳴らします。「イスラエルとイランが対立している」「サウジアラビアとイランが争っている」といった、国家間の関係を矢印で示したような相関図ばかりが提示され、複雑な現実を見落とす原因となっています。しかし、中東の国際関係は、そのような単純な図式では決して読み解けません。
矢印では見えない「中東情勢」の真実
中東情勢は、メディアが描き出すような直線的な対立関係だけでは語れません。むしろ、各国の微妙な思惑や戦略、国際情勢の変化によって絶えず変動する「ニュアンス」が、真の動きを理解する鍵となります。
サウジアラビアとイランの国交回復:見せかけの対立
2023年3月10日、サウジアラビアとイランが国交回復に関する共同声明に署名したことは、多くの日本人にとって予想外のニュースでした。しかし、中東情勢を深く観察していた人々にとっては、驚くべきことではありませんでした。その背景には、アメリカの中東政策の変化がありました。
かつて、親イラン派武装組織フーシ派がサウジアラビアの製油所などを攻撃した際、サウジは同盟国であるアメリカからの具体的な警告や反撃を得られませんでした。この出来事により、サウジはアメリカが中東の防衛に以前ほどの関心を示していないと判断。アメリカに依存するよりも、自らイランと直接交渉し、関係改善を図ることでリスクを低減する戦略に転換したのです。これは、単純な「敵対関係」という矢印だけでは決して読み取れない、現実的な外交の動きでした。
サウジアラビア・イラン国交回復合意:2023年、両国代表が関係正常化の共同声明に署名
アブラハム合意:イスラエルとアラブ諸国の複雑な関係性
2020年9月15日、当時のトランプ米政権が主導したアブラハム合意も、同様に「ニュアンス」が重要となる事例です。アラブ首長国連邦(UAE)やバーレーンといったアラブ諸国が、これまで対立関係にあったイスラエルを国家承認し、国交を正常化しました。
アブラハム合意調印式:2020年、ホワイトハウスでイスラエル、UAE、バーレーンの代表者が歴史的合意に署名
「アラブ諸国とイスラエルは常に敵対している」という固定観念を持つ人々は、この合意に強い衝撃を受けたかもしれません。しかし、長年にわたる両者の関係には、水面下の協力関係や共通の利益、地域安全保障上の懸念など、複雑な「ニュアンス」が存在していました。これらの「ニュアンス」を理解していれば、国交正常化は決して突飛な出来事ではなく、むしろ長期的な関係性の延長線上にあると捉えることができます。
結論
中東情勢は、日本のメディアが提示するような単純な二項対立や矢印の相関図だけでは決して理解できません。各国が置かれた状況、歴史的背景、地政学的・地経学的な思惑、そして国際社会の変化が織りなす複雑な「ニュアンス」こそが、真の動向を読み解く鍵となります。エネルギー資源の供給源としてだけではなく、多角的で深い視点から中東を捉え直すことが、国際社会の一員としての日本にとって不可欠であると言えるでしょう。
参考資料
- 鈴木一人『地経学とは何か』新潮選書 (本書の一部を再編集したものです)





