奥崎謙三と『ゆきゆきて、神軍』:昭和天皇の戦争責任を問い続けた男の軌跡

戦時中、ニューギニアの極限状態を生き抜き、戦後には昭和天皇にパチンコ玉を発射するという破天荒な行動で知られる元日本兵、奥崎謙三。彼の一生を追ったドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』は、今なお日本のドキュメンタリー映画史における最高傑作の一つとして語り継がれています。今年は戦後80年という節目を迎え、奥崎氏の人物像を深く掘り下げ、戦後の検証を試みることは極めて重要です。この人物を直接知る映画監督の原一男氏と、元刑務官で作家の坂本敏夫氏が再び奥崎謙三について語り尽くし、その特異な生涯と日本の「戦後責任」への問いを明らかにします。

ドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』で描かれた、昭和天皇の戦争責任を問い続けた奥崎謙三ドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』で描かれた、昭和天皇の戦争責任を問い続けた奥崎謙三

「神軍平等兵」奥崎謙三の過激な行動とその背景

奥崎謙三は、太平洋戦争において日本軍の独立工兵隊第36連隊の一兵士として、激戦地ニューギニアに派遣されました。約1300名いた部隊の中で、ジャングルの飢餓地獄を生き残ったのはわずか100名ほど。この極限状態での体験が、彼のその後の人生を決定づけることになります。自らを「人間の作った法と刑を恐れずに行動する神軍平等兵」と称し、慰霊と天皇の戦争責任追及を生涯の使命としました。

彼の行動は、社会に大きな衝撃を与え続けました。

  • 1956年: 店舗の賃貸借をめぐる金銭トラブルから悪徳不動産業者を刺殺し、傷害致死罪で懲役10年の刑に服します。これが彼の最初の刑務所生活でした。
  • 1969年: 皇居の一般参賀で昭和天皇にパチンコ玉を発射し、懲役1年6か月の判決を受けます。この事件は、天皇制に対する彼の強烈な異議申し立てとして広く知られることになりました。
  • 1972年: ポルノ写真に天皇一家の顔写真をコラージュしたビラ約3,000枚を配布し、懲役1年2か月の刑に処されます。
  • 1981年: 田中角栄元首相に対する殺人予備罪で逮捕されましたが、不起訴処分となります。
  • 1987年: 殺人未遂等の罪で懲役12年の判決を受けます。

奥崎は、2005年に亡くなるまで一貫して天皇の戦争責任を訴え、希代のアナーキストとしてその名を歴史に刻みました。これらの過激な行動は、戦後の日本社会が抱える未解決の戦争責任問題と、それに対する個人の怒り、苦悩を浮き彫りにするものでした。

『ゆきゆきて、神軍』:ドキュメンタリー映画の傑作が描く奥崎像

奥崎謙三の破天荒な生涯を追った『ゆきゆきて、神軍』は、今村昌平企画、原一男監督により1987年に公開されました。この映画は、奥崎氏自身の強い個性と、彼が追い求める戦争の真実、そして天皇の戦争責任という重いテーマを、生々しく、時には衝撃的な手法で描き出し、日本のドキュメンタリー映画界に金字塔を打ち立てました。原監督は、奥崎氏の活動に深く密着し、彼の怒りや葛藤、そして人間的な弱さをも余すところなく捉えることで、観客に深い問いを投げかけます。映画は単なる人物ルポルタージュに留まらず、戦後の日本社会が目を背けてきた戦争の記憶と向き合うよう促す、強烈なメッセージを秘めています。

刑務官・坂本敏夫が明かす奥崎謙三との「運命的な繋がり」

奥崎謙三という人物を語る上で欠かせないのが、彼と深く関わった人々、特に元刑務官で作家の坂本敏夫氏と、映画監督の原一男氏の視点です。原監督が奥崎氏の過激な活動をドキュメンタリーとして追ったのに対し、坂本氏は奥崎氏が不動産商業者傷害致死事件で大阪刑務所に服役していた際に、刑務官として接点がありました。さらに驚くべきことに、坂本氏が刑務官になるきっかけそのものが奥崎氏との「運命的な繋がり」にあったと明かされています。

坂本氏の父は、戦時中に沖縄戦で重傷を負い、戦後、熊本刑務所の刑務官として採用されました。幹部候補として嘱望され、1963年には広島拘置所の立て直しを特命で遂行。そして1966年4月、日本最大の施設である大阪刑務所の管理部長に就任します。ちょうどこの年は、監獄法に関する省令が画期的に改正され、受刑者の人権が大幅に保障された年でもありました。この変革の中で、坂本氏の父は、受刑者からの多数の面接願いに応じ、中でも奥崎氏のような処遇困難者(クレーマーなど)との面接を一手に引き受けたのです。

面接は通常の数倍もの時間をかけ、複数回にわたって行われたと言います。おそらく、奥崎氏が語る驚愕の戦争体験に触れるうち、坂本氏の父もまた、生きるために封印していた沖縄戦の悲惨な体験を思い出し、PTSDを発症してしまったのでしょう。心を病んだ父は入院後、病室から飛び降りて自死してしまいます。

父の死後、東京の大学生だった坂本氏は、父の同僚から「お前が父の後を継いで刑務官になれば、官舎にいる母や弟もそのままでいられる」と勧められ、刑務官試験に合格し、職に就くことになります。そしてその職務の中で、奥崎氏が「刑務官で唯一話ができたのは自分の親父だった」と語っていたことを知ります。

ある日、独居生活で世話になったという刑務官A氏が奥崎氏を訪ねてきました。そのA氏が坂本氏の官舎を訪れ、「奥崎謙三があんたに会いたがっている。管理部長の息子が刑務官になったと聞いて、どうしても会いたいと会いに来た」と伝えます。A氏の官舎で対面した奥崎氏は、満面の笑みで坂本氏を迎えたと言います。これは、奥崎謙三という人物の多面性、そして人間的な深みを垣間見せる貴重なエピソードです。

結論

奥崎謙三の生涯は、一人の人間が経験した戦争の残酷さと、それが戦後の社会、特に天皇制に対して抱いた根深い問いを象徴しています。『ゆきゆきて、神軍』は、その問いを映画という形で世に問いかけ、多くの人々に衝撃を与えました。そして、坂本敏夫氏のような人々との予期せぬ、しかし運命的な繋がりは、奥崎謙三という人間が単なる「アナーキスト」というレッテルでは語り尽くせない複雑な存在であったことを示しています。

戦後80年を迎える今、私たちは奥崎謙三の行動と彼のメッセージを改めて考察するべきです。それは、過去の過ちから学び、未来へ繋がる真の平和を築くために、不可欠な「戦後検証」の一環と言えるでしょう。奥崎氏の存在は、日本社会がこれまで目を背けてきた歴史の暗部に光を当て、私たちに深い思索を促し続けています。

参考文献