だから「人生の達人」は69歳で浄土を信じるようになった…敬愛する作家が残した「死ぬ楽しみ」の深すぎる意味


 嵐山光三郎さんが亡くなった。本名・祐乗坊英昭、享年83。

【画像】善國寺 神楽坂毘沙門天

 嵐山さんが亡くなったのを知ったのは、私が傘寿(80歳)を迎えた11月24日の4日後の11月28日だった。

 11月4日に亡くなっていたが、近親者だけで葬式を済ませたという。まだ、「偲ぶ会」をやるかどうかも決まっていないようだ。

 嵐山さんには「嵐山組」と密かに称されていたグループがあった。出版プロデューサーというよりも優れた“趣味人”として有名な坂崎重盛さんやテレコムスタッフの代表取締役の岡部憲治さん、元大正大学の教授だった渡邊直樹さんなどがその主要メンバーだったが、訃報を知っていた人はごくごく限られた人だったようだ。

 聞いたところによると、今年の5月頃倒れて、その時に医者から余命何カ月といわれたらしい。

 私も「嵐山組」の隅っこにいて、嵐山さんの謦咳に接した一人だが、彼はまさに「人生の達人」だった。その理由は、後で述べるとして、訃報に接したその日、「レンコンのテンプラ」をデパ地下で買ってきて、それをつまみながら嵐山さんを偲んだ。

■死ぬ寸前「何を食べたいか」と聞かれたら

 昨年の11月2日、神楽坂の老舗中華屋でやった「嵐山句会」で会ったのが最後になってしまった。

 久しぶりに会った嵐山さんは会うなり、「元木よ、俺はモロッコへ行ったとき、向こうでトラブルに巻き込まれてよ、歯を折られたんだ」と、いつもより大きな声で声をかけてきた。

 久しぶりに会う嵐山組の面々も、年相応に老けてはいたが、組長の一声で渡された紙に句を書き、それを嵐山さんが講評するのはいつも通りだった。少し、こちらのいうことへの反応が鈍いところはあったが、まだ元気そうだった。

 「また会いましょう」と声をかけて別れた。

 また近々会えると思っていたのに……残念だ。

 なぜレンコンなのか? 嵐山さんは多くの本を出しているが、私は『素人庖丁記』(講談社)が一番好きだ。

 その中に「末期の一品」というのがある。

 「死ぬ寸前、家族の者に、

 『何を食べたいですか?』

 と訊かれたら、即座に献立をあげなくてはいけない。」



Source link