世界が未曾有の危機に瀕していた激動の時代、自らの生き方を貫いた女性たちがいた。その一人、女優であり歌手でもあった田中路子は、オーストリアの「コーヒー王」マインルと結婚し、欧州の華やかな舞台で成功を収めながらも、第二次世界大戦の影に翻弄された波乱万丈の人生を送った。特に、1938年のオーストリア併合直前、映画『ヨシワラ』での早川雪洲との共演が、彼女の運命を大きく左右することとなる。作家の平山亜佐子氏の著書『戦前 エキセントリックウーマン列伝』に基づき、田中路子が経験した激動の時代と、その中で見せた強靭な精神に迫る。
ヨーロッパでの成功と予期せぬ転機
田中路子は、ヨーロッパで歌手、そして女優としてその才能を開花させた。成功を収め順風満帆に見えた彼女の人生に、しかし予期せぬ転機が訪れる。その一つが、フランスの映画会社リュッスからの映画『ヨシワラ』への出演オファーであった。ピエール・リシャール・ウィルム、そして伝説の映画スター早川雪洲との共演は、彼女にとって大きなチャンスであると同時に、後に思いもよらぬダメージをもたらすことになる。
撮影はパリで行われ、路子は全力を傾けた。多忙な日々の中、ロンドンに住む恋人ツックマイアーとの遠距離恋愛に寂しさを募らせる。ある夜、ツックマイアーのホテルに電話をかけたところ、彼の妻が出てしまったことで、路子は別れを決意する。
私生活での混乱に加え、国際情勢も緊迫の度合いを増していた。1938年3月12日の午後、路子はラジオを通じて、ドイツ軍がオーストリアに侵入したという衝撃的なニュースを知る。夫マインルに連絡を取ろうとするも叶わず、路子はいてもたってもいられずウィーンへと旅立った。憔悴しきったマインルは、路子にすぐにパリに戻るよう促す。ユダヤ人の友人たちの安否を案じた路子は、家々を車で回り、彼らが国外へ持ち出したいと願う品々を預かった。マインルの宝石も受け取り、路子は再びパリへと戻ることになる。
映画スター・早川雪洲の宣伝写真(1918年撮影)
早川雪洲との出会いと「ヨシワラ」を巡る波乱
映画『ヨシワラ』の撮影が終了すると、稀代のプレイボーイとして知られる早川雪洲からの猛烈なアプローチが始まった。路子は彼の魅力に抗えず、あっという間に心を奪われる。ツックマイアーに別れを告げ、パリ16区パッシーにアパルトマンを借りて雪洲と同棲を開始し、彼のプロダクション設立にも協力し始めた。しかし、雪洲には日本に残してきた妻子の他にも、元芸者の女性やアメリカ人女性との間に子供がいることが明らかになる。さらに、ある日アパルトマンに現れたアメリカ人女性に対し、雪洲がその髪を掴んで階段から突き落とすという暴挙に出たことで、路子は彼の本性を知り、急速に愛情が冷めていった。
悪いことは重なるもので、映画『ヨシワラ』は日本で「国辱映画」として激しく非難され、上映中止に追い込まれてしまう。当時ベルギーにいた武林文子が、娘を映画に出演させられなかった腹いせに、路子に振られた日本の名士と共に運動を起こした結果だと後に伝えられている。結局、この映画が日本で公開されるのは戦後のことであった。
激動の戦時下、田中路子は欧州で成功を収めながらも、恋人との別れ、オーストリア併合、そして早川雪洲との破局、さらに自身の出演作が「国辱映画」と批判されるという、想像を絶する困難に直面した。しかし、彼女は自らの信念と才能を頼りに、その激動の時代を力強く生き抜いたのである。
参考文献
- 平山亜佐子『戦前 エキセントリックウーマン列伝』左右社



