【世界史ミステリー】最強モンゴル軍が西ヨーロッパに侵攻しなかった決定的理由


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● モンゴル帝国の誕生

 1206年。この年、モンゴル高原の東に流れるオノン川の源流近くで、モンゴル諸部族の指導者らが集い、クリルタイと呼ばれる会合が開かれます。

 このクリルタイで、ある人物がモンゴル諸部族全体の君主に推戴されます。彼の名はテムジンといい、遼(契丹)の崩壊以来、諸部族による抗争に明け暮れたモンゴルの統一に成功します。テムジンは君主号である「カン(ハン)」を名乗り、これよりチンギス・カンと呼ばれます(在位1206〜1227)。これが、「大モンゴル国(イェケ・モンゴル・ウルス)」、通称モンゴル帝国の建国です。

● モンゴルからイスラーム、ヨーロッパ世界へ遠征

 これより、モンゴル人によるユーラシアを股にかけた大規模遠征が繰り広げられます。チンギスは手始めにナイマンを降し、続いて当時イスラーム世界で強勢を誇ったホラズム・シャー朝に壊滅的な打撃を与えます。

 さらに、武将のスブタイに命じて遠征を続行させ、スブタイはカルカ河畔の戦いでクマン(キプチャク)人とロシア諸侯の連合軍に大勝します。一方、チンギスは中国に取って返し、西夏に猛攻を加え滅ぼしますが、彼は滅亡の3日前に息を引き取りました。

 チンギスの跡を継いだのは三男のオゴデイ(オゴタイ:在位1229〜1241)で、彼はモンゴルの最高君主として他のカンと区別をつけるため、「カアン(大カン)」という称号を名乗ります。オゴデイはまず自ら軍を起こして中国進出を本格化し、金を滅ぼして(1234)華北を征服します。

 また、オゴデイ・カアンは甥のバトゥを総司令官に征西を命じ、バトゥはキエフ・ルーシ(ロシア国家の源流)を崩壊させ、さらに東ヨーロッパに侵攻します。下図(図27)はモンゴル帝室の家系図です。

● ヨーロッパ侵攻、そして突然の撤退

 バトゥは歴戦の武将スブタイとともにハンガリーに迫り、1241年のモヒ(シャイオ川)の戦いでハンガリー王国に壊滅的な打撃を与え、また別働隊はポーランドに侵攻し、糧秣をはじめとする物資の確保のため各地を荒らしまわります。

 バトゥの征西軍はさらに西ヨーロッパに迫りますが、オゴデイの訃報と兵站の確保を理由に引き返します。これにより西ヨーロッパは、かろうじてモンゴルの襲来を免れたのです。

 (本原稿は『地図で学ぶ 世界史「再入門」』を一部抜粋・編集したものです)

伊藤敏



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