雅子さま ご成婚32年:皇后陛下が歩まれた苦難の道と、当時の週刊新潮が見た「試練」

6月9日、天皇・皇后両陛下はご成婚32年を迎えられた。1993年6月9日の夕刻、当時33歳だった天皇陛下と29歳だった雅子皇后は、多くが祝福する中、パレードに臨まれた。沿道にはおよそ19万人の観衆が詰めかけ、テレビ中継では各局合計で瞬間最高視聴率85.6%を記録するなど、国民の大きな注目を集めた出来事であった。

これに先立つ同年1月19日の婚約内定会見では、お二人がプロポーズの際のやり取りを披露された。雅子皇后は当時、外務省でやりがいのある国際的な仕事に携わっており、「仕事を辞めるべきかどうかだいぶ悩んだ」と率直な気持ちを吐露された。しかし、陛下から「皇室に入られることは不安や心配がおありでしょうが、雅子さんのことは僕が一生全力でお守りします」という力強い言葉をかけられ、「心を動かされた」と明かされている。

雅子さまが直面した環境の変化と世間の声

外務省で世界を舞台に活躍されていた雅子さまが、“日本一の旧家”とも言われる皇室に入られるにあたっては、その環境の大きなギャップから来る適応への懸念の声も少なからず存在した。また、それを否定的に捉える向きからは、さまざまな誹謗や中傷が流されていたのもまた事実である。言わばこの32年間は、そうした厳しい声や環境の変化との向き合い、そして乗り越えるための年月でもあったと言えるだろう。

婚約当時、週刊新潮が分析した「試練」

「週刊新潮」は、ご婚約当時から皇室の周辺を取材し、雅子さまに向けられた誹謗や中傷が誰から、どのように流されたのかについて分析した記事を掲載している。当時の記事を振り返ることで、この30年余り、雅子さまがどのような状況に置かれ、何に苦慮されてこられたのか、その一端を垣間見ることができる。以下は、1993年1月28日号に掲載された記事の一部再録を元に構成した内容である。(当時の記事のため、敬称や役職は原則として当時のものを使用し、必要に応じて現在のものを追記している。また、文中「小和田さん」は現・皇后陛下、「皇太子殿下」は現・天皇陛下を指す。)

婚約内定後、小和田雅子さまには儀式が続く日々が待ち受けていた。一般の結納にあたる「納采の儀」に始まり、挙式の日取りを伝える「告期の儀」、そして「結婚の儀」へ。これらの儀式を経て、新婚旅行ともいえる伊勢神宮へのご結婚奉告が控えていた。

当時の宮内庁OBは、伊勢神宮へのご旅行について「ここで、小和田さんはびっくりされるのではないでしょうか。第一の試練と言ってもいいかもしれません」と懸念を示していた。その理由として、伊勢では皇太子殿下とは部屋も食事も別々になり、体を清めるための潔斎を行う際にも、雅子さまご自身は何一つ行う必要がなく、ただ立っていれば、見たこともない巫女が全身を拭き清めてくれるといった、厳格かつ特殊な慣習があることを挙げている。海外で合理性を学ばれた雅子さまが、こうした日本の伝統的な、ある意味で非日常的な慣習をどのように受け止められるか、という点が「試練」として捉えられていたことがうかがえる。

ご成婚パレードで笑顔を見せる雅子皇后陛下ご成婚パレードで笑顔を見せる雅子皇后陛下

32年の歩みと皇后陛下として

ご成婚から32年。雅子さまは皇后陛下として、天皇陛下を支え、公務に臨まれている。適応への懸念や、結婚当初から向けられた厳しい目、そしてそれに伴う心労など、決して平坦ではなかった道のりを歩んでこられた。外務省職員としてのキャリアを離れ、皇室という全く異なる世界に入られた雅子さまが、ご自身の役割を見つけ、国民に寄り添う皇后となられるまでには、想像を超えるご苦労があったことだろう。当時の週刊新潮の記事が示唆するように、皇室の慣習に適応することもまた、大きな課題の一つだったのである。32年という月日は、皇后陛下が多くの試練を乗り越え、その存在感を確かなものとされてきた証と言えるかもしれない。

参考文献

週刊新潮 1993年1月28日号
Yahoo!ニュース / デイリー新潮 2024年6月9日掲載記事