1981年、西ドイツの法廷で前代未聞の事件が発生した。7歳の娘を無惨に殺害された母親が、公判中に犯人に向けて銃を発砲し、その場で射殺したのだ。この衝撃的な出来事は、瞬く間に世界中のメディアで報じられ、司法と個人の復讐、そして社会の評価を巡る大きな議論を巻き起こした。マリアンネ・バッハマイアーという一人の母親が起こしたこの悲劇的な事件は、多くの人々に強烈な問いを投げかけた。
悲劇の発端:7歳少女アンナの死
事件の始まりは1980年5月、西ドイツのリューベックに住むマリアンネ・バッハマイアー氏(当時31歳)の娘、アンナちゃん(当時7歳)が行方不明になったことだった。警察の捜査の結果、近所に住む肉屋の店員クラウス・グラボウスキー(35歳)が容疑者として浮上。彼は過去に性犯罪歴のある常習者だった。グラボウスキーはアンナちゃんを自宅に連れ込み、強姦の末に殺害し、遺体を埋めたことが明らかになった。
ドイツの法廷で娘殺害犯を射殺したマリアンネ・バッハマイアー氏の写真
法廷での駆け引きと母親の決意
裁判が開始されると、クラウス・グラボウスキーの弁護側は驚くべき主張を展開した。グラボウスキーが過去に睾丸摘出手術を受けていたことを根拠に「彼には性欲がないため、これは性犯罪ではない」と訴えたのだ。さらに、弁護側は「アンナが被告をゆすったため、とっさに首を絞めてしまったに過ぎず、もはや正当防衛である」と主張し、検察に対し殺人罪(謀殺)を傷害致死罪(故殺)に軽減するよう求めた。
このような弁護側の主張により、法廷内には被告に厳罰を科すべきではないかのような空気が流れ始めた。娘を失った悲しみと犯人への強い憎悪、そして司法への不信感を募らせていたマリアンネ氏は、第2回公判を迎える。
法廷で響いた7発の銃弾と「あなたのためよ、アンナ」
そして迎えた第2回公判中、マリアンネ氏は傍聴席から静かに立ち上がった。被告席に近づき、コートのポケットから隠し持っていた22口径のベレッタを取り出すと、クラウス・グラボウスキーの背中に向け、立て続けに7発の銃弾を発砲した。グラボウスキーは即死した。彼の息絶えた姿を確認したマリアンネ氏は、静かに銃を下ろし、「あなたのためよ、アンナ」とつぶやいたという。
殺人罪で起訴されたマリアンネ氏は、法廷でその動機を明かした。「司法がグラボウスキーに対してふさわしい罰を与えるとは思えなかった。私がこの手で罪を償わせるしかなかった」。彼女自身もまた、幼少期に継父からの性的虐待を受けたり、男性からのレイプ被害に遭ったりするなど、壮絶な人生を送ってきていた。過去の経験も、彼女の決断に影響を与えた可能性は高い。
裁判の判決とマリアンネ氏のその後
1983年3月、裁判所はマリアンネ氏に対し、過失致死罪と銃器の不法所持の罪で懲役6年の判決を下した。この判決は、殺人罪ではなく過失致死が適用された点など、多くの議論を呼んだ。彼女は刑期の3年後に仮釈放され、その後再婚と離婚を経験した。
1996年、膵臓がんにより46歳で死去する直前、北ドイツ放送の密着番組に出演した際、マリアンネ氏はクラウス・グラボウスキーを射殺したことについて、一片の悔いもないことを語ったという。彼女の遺体は、リューベックのブルグトール墓地にある娘アンナちゃんの墓に、共に埋葬された。この事件は、司法の限界、被害者遺族の苦悩、そして復讐という行為の是非について、現代社会にも問いかけ続けている。
参考文献
- 本記事は文春オンラインに掲載された記事を元に作成しています。