日本で最初に発見された水中遺跡として知られる、諏訪市の諏訪湖底にある「曽根遺跡」。この遺跡について、新潟大学理学部の葉田野希准教授(前長野県環境保全研究所技師)らの研究グループが実施した湖底堆積物の調査により、縄文時代中期から後期にかけての約千年間、遺跡のある区域が地上に露出していた可能性が高いことが明らかになりました。これは、諏訪湖の水位が大きく変動したことが要因とみられています。
水中にある理由巡り論争、新調査が地滑り説に疑問符
曽根遺跡がなぜ水没しているのかについては、これまで地上にあった遺跡が地滑りによって湖に流れ込んだとする説などがありました。しかし、今回の調査で採取された堆積物からは、地滑りを示すような地層の乱れは確認されませんでした。このため、考古学関係者などからは、地上にあった遺跡が湖の水位上昇により水没したとする説を裏付ける発見につながるものとして注目されています。
諏訪湖底「曽根遺跡」で行われた地質ボーリング調査の様子
研究グループは、昨年10月に曽根遺跡を巡る地質学的な調査として初のボーリング調査を実施。諏訪湖に流入する千本木川河口付近の湖底(水深約2メートル)で、約2.6メートル分の地層を採取しました。この採取地点は、遺跡から遺物が多く出ている場所からはやや離れています。採取された堆積物は、放射性炭素年代測定や蛍光エックス線分析といった手法で詳しく調べられました。
堆積物分析で過去の水位変動を解明、二酸化ケイ素濃度に着目
調査では、水中の植物プランクトンの量と相関する二酸化ケイ素の濃度変動に特に着目しました。分析の結果、縄文時代中期以降の地層で二酸化ケイ素濃度が大きく上下を繰り返していることが判明。このことから、一帯が水没と地上への露出を繰り返していたと推定されました。
諏訪湖底「曽根遺跡」周辺で採取された縄文時代の湖底堆積物サンプル
さらに、堆積物の放射性炭素年代測定を行った結果、約4200年前の縄文時代中期から約3200年前の縄文時代後期にかけての約千年間は、この区域が地上に露出していた時期であったことが明らかになりました。葉田野准教授は、こうした過去の水位変動の背景には、降水量の増減や流入河川の水量変化などが考えられるとしています。
遺跡の年代と水位変動の繰り返し
曽根遺跡は、後期旧石器時代から縄文時代草創期にかけての遺跡としても位置づけられています。今回採取された地層は、遺跡の主な年代よりも新しい時期に堆積したものですが、葉田野准教授は、諏訪湖の水位が、後期旧石器時代なども含めて比較的短期間で繰り返し上下していたと推測しています。
今後の調査と新説への期待
葉田野准教授は、今回の調査結果について、「遺跡全体の状況をより正確に把握するためには、別の場所の堆積物も調べるなど、さらなる調査が不可欠」と述べつつ、「今回採取した堆積物の状況からは、地滑りを示唆する痕跡は見られなかった」と指摘しています。今後は、遺跡のより中心に近い地点で堆積物を採取し、地質学的な解明をさらに進めていきたいとしており、今回の調査が、曽根遺跡の水没要因に関する新たな説、特に水位変動説の有力な根拠となることが期待されています。
曽根遺跡を巡る長年の謎の解明に向け、地質学と考古学の連携による今後の調査の進展が待たれます。