太平洋戦争末期、アメリカが日本を降伏させるためにどのような戦略をとったのかは、歴史上重要な問いとして残されています。戦争終結論を研究する千々和泰明氏によれば、米国は日本を降伏させるための三つの選択肢を有しており、その一つが原子爆弾でした。本稿では、その選択肢がどのように形成されたのか、そして同時期の日本の核開発の状況について、千々和氏の著書『誰が日本を降伏させたか 原爆投下、ソ連参戦、そして聖断』(PHP新書)に基づき解説します。これは全三回シリーズの第一回です。
原爆投下後の広島の壊滅的な光景
核兵器開発の背景:マンハッタン計画の始動
全ての物質は原子から構成されており、20世紀に入ると、この原子の核分裂が莫大なエネルギーを生み出すことが発見されました。このエネルギーを兵器として応用する研究が進められ、それが核兵器として結実します。第二次世界大戦が勃発すると、ナチス・ドイツが核開発に着手したことが判明し、この動きを知った米国は、ドイツよりも早く核兵器を完成させなければ危険であると考えました。
ドイツは後に核開発を断念するものの、その事実を知らないフランクリン・ローズヴェルト政権は、核兵器製造のための「マンハッタン計画」を強力に推進しました。計画本部がニューヨークのマンハッタンに置かれたことから、この名称がつけられています。しかし、ローズヴェルト大統領は、核開発の成功を見ることなく、1945年4月12日に病により他界します。
その後を直ちに引き継いだハリー・トルーマン大統領は、翌13日にヘンリー・スティムソン陸軍長官から、「信じられないほどの破壊力を持つ新型爆弾」が開発中であるとの報告を受け、マンハッタン計画は新政権下でも継続されることになりました。
米軍による空襲で破壊された1945年の東京の様子
日本の核開発研究とその限界
実は、第二次世界大戦当時、日本軍も独自に核開発研究に着手していました。陸軍が理化学研究所の仁科芳雄博士に委託した「ニ号研究」(「ニ」は仁科の「に」に由来)や、海軍が京都帝国大学の荒勝文策博士に依頼した「F研究」(「F」は核分裂を意味する“fission”に由来)が、その代表例として知られています。
しかし、これらの研究はいずれも完成にはほど遠い状態であり、1945年7月までに打ち切られました。特に荒勝博士は海軍側に対し、当時の技術では今次大戦中に核エネルギーの実用化は不可能であるという最終的な判断を伝えています。そのわずか2週間後、米国によって広島に原子爆弾が投下されることになります。
まとめ
本稿では、太平洋戦争末期における米国の日本降伏戦略の一環としての原子爆弾開発、すなわちマンハッタン計画の背景と、同時期に進められていた日本の核開発研究の状況とその限界について解説しました。米国の計画がトルーマン大統領へと引き継がれ、最終兵器としての原子爆弾が現実味を帯びていく一方で、日本の核開発は実用化には至りませんでした。この技術力の差が、その後の歴史に決定的な影響を与えることになります。続く回では、日本を降伏させた他の要因についてさらに深く掘り下げていきます。
参考文献
千々和泰明『誰が日本を降伏させたか 原爆投下、ソ連参戦、そして聖断』(PHP新書)