峰竜太が語る父・下嶋次郎の面影:激動の時代背景と親子の絆

幼い頃に憧れた父の力強い背中、叱られた時の厳しい声、そして自身の成長と共に増えた衝突。俳優・タレントとして知られる峰竜太さんの心には、今もなお父・下嶋次郎さんへの複雑な感情が深く刻まれています。1998年から2004年にかけて雑誌『婦人画報』で連載され、大きな反響を呼んだ人気企画「『我が父』を語る」では、各界の著名人が自身の父親との関わりを深く掘り下げてきました。今回は、その中でも特に読者の心に残った峰竜太さんの父への思いを、当時の貴重な写真と共に改めてご紹介します。戦後の厳しい時代を生き抜いた父の人生、そして峰竜太さんが語る家族の物語は、多くの人々に共感を呼び、深く考えるきっかけとなるでしょう。

俳優・タレント峰竜太が自身の父について語る姿俳優・タレント峰竜太が自身の父について語る姿

峰竜太が見た「三つの大きな背中」:父・下嶋次郎と二人の師

自身の人生を振り返り、峰竜太さんは「自分は三つの大きな背中を見ながら育った」と語ります。その中でも特に大きな影響を与えたのが、故郷で自営業を営んでいた父、下嶋次郎さんでした。万事に控えめで、家族のために黙々と働くその姿は、やんちゃ盛りだった幼い峰さんにとって、まさに憧れのスーパーマンそのものでした。

俳優・タレント峰竜太の父、下嶋次郎氏の肖像と若き日の峰竜太俳優・タレント峰竜太の父、下嶋次郎氏の肖像と若き日の峰竜太

峰さんの人生に影響を与えたもう二つの「背中」は、愛妻との結婚を機に出会った落語家の林家三平師匠と、当時の所属事務所社長であり、大スターとして大きな目標だった石原裕次郎さんです。まだ無名だった若い頃、引け目を感じることも少なくなかった峰さんにとって、彼らの存在は常に大きな支えであり、いまも深く心に残っています。しかし、その根源には常に父・下嶋次郎さんの存在があったと峰さんは語ります。

激動の時代を生きた父の決断:兄嫁との再婚と家業継承

峰竜太さんの父、下嶋次郎さんは1922年に長野県下伊那郡で造り酒屋の次男として生まれました。しかし、長男の病死という予期せぬ出来事により、次郎さんは当時の家業だった雑貨店を継ぐことになります。さらに、その際、急死した長男の妻であったちとみさんと結婚し、峰竜太さんを含む四人の男子を育て上げました。

高校生の頃、峰さんは冗談めかして母に「本当に親父でよかったの?」と尋ねたことがあるといいます。母はうまくはぐらかしましたが、この複雑な状況は、戦後間もない日本の田舎では珍しいことではありませんでした。しかし、当事者である父には、計り知れない思いと覚悟があったことでしょう。商売の学校を出て、戦時中には中国の大連で貿易会社に勤めていた父には、きっと自分で商売を始めたいという夢や、やりたいことがたくさんあったはずです。それが、兄の死によって実家に戻らざるを得なくなり、しかも結婚相手は「兄嫁」。峰さんは、もし自分が同じ立場だったら、とても耐えられなかっただろうと感じ、父が本当に自分の思いを全うして生きられたのか、少し可哀想な気持ちになると打ち明けています。

約40年前、長野の実家前で父と談笑する若き日の峰竜太約40年前、長野の実家前で父と談笑する若き日の峰竜太

親子の絆と残された心残り:語られなかった父の思い

父が自身の結婚や人生について、本当はどう思っていたのか。峰さんは「そういうこと全然言わない親父でしたし、僕も聞きませんでしたから」と語り、今となっては知る由もありません。

しかし、父が亡くなる少し前、予期せぬ言葉を口にしたことがありました。「俺とお母ちゃんがいっしょの写真が一枚もない」。父と母は、大々的な祝言を挙げることなく結婚したため、結婚式の写真さえ一枚もなかったのです。峰さんはその時初めてその話を聞き、二人の写真を撮影しました。しかし、残念ながらその写真をなくしてしまったといいます。この出来事は、峰さんにとって「結局、最後まで親不孝な息子でしたね」という、深い後悔として心に残っています。語られることのなかった父の胸中と、それを知りながらも深く理解しきれなかった息子との間に流れる、複雑でありながらも強い絆がこのエピソードから垣間見えます。

下嶋次郎さんは1989年に66歳で病没しました。峰竜太さんが語る父との思い出は、単なる家族の物語にとどまらず、戦後の日本において家族や個人の運命がどのように紡がれていったかを教えてくれる貴重な記録です。父の背中から学んだ生き方、そして伝えきれなかった親子の思いは、峰竜太さんの現在の活動にも深く影響を与えていることでしょう。

参考資料