太平洋戦争下、国のために命を捧げた零戦搭乗員たち。彼らに突きつけられた過酷な特攻命令の中でも、歴戦のパイロット角田和男氏が経験した「反撃はいっさいしてはならぬ」という鬼のような指示は、その極限状態を如実に物語る。本記事では、葉櫻隊として出撃した特攻作戦の真実に迫る。
昭和19年11月9日、特攻出撃のため飛び立つ零戦の角田和男少尉機
激戦地セブ島での突然の出撃命令
昭和19年10月30日、春田大尉の発案によりタクロバンの敵飛行場を黎明攻撃後、指揮機能を持つセブ島へと向かった角田隊。基地でつかの間の休息を取り、朝食を終えた午前10時頃、基地指揮官の二〇一空飛行長・中島正少佐に呼ばれた彼らは、突然の出撃命令を受けることになる。索敵機からレイテ沖に敵機動部隊が発見されたとの情報を受け、中島少佐は、搭乗員に若い者が多く航法に自信が持てない特攻隊の直掩を、春田隊に命じたのだ。任務を果たせば帰投は許されるものの、戦死した場合は特攻隊員と同様の待遇をすると告げられ、角田氏には張り詰めた緊張が走った。
特攻出撃前、静かに前を見つめる若き日の零戦パイロット角田和男氏
「反撃はいっさいしてはならぬ」――衝撃の命令内容
中島少佐の言葉はさらに続いた。「直掩機は敵機の攻撃を受けても、反撃はいっさいしてはならぬ」。それは、爆装隊の盾となり、弾丸を受け止め、敵機からの攻撃を阻止せよという、非情な命令であった。戦果確認後の帰投、そして離脱が困難な場合の戦闘続行という指示は、まさに命をかけた任務を意味した。ソロモンや硫黄島で数々の修羅場を経験してきた角田氏でさえ、これほどまでに過酷な、鬼神のような命令を受けたのは初めてのことだったという。中島少佐は、突入成功の暁には新しい隊名を命名すると付け加えた。この特攻隊こそ、後に「葉櫻隊」と称されることになるのである。
零戦搭乗員たちの壮絶な証言が語り継ぐもの
角田和男氏の証言は、太平洋戦争末期の特攻作戦における搭乗員たちの極限状況と、理不尽な命令の重みを現代に伝える貴重な記録である。彼らが直面した「反撃はいっさいしてはならぬ」という非情な命令は、戦争の狂気を浮き彫りにした。葉櫻隊の一員として生還した角田氏の言葉は、戦後80年を経た今もなお、平和の尊さを深く問いかけている。
参考文献
- 『零戦搭乗員と私の「戦後80年」』(講談社)
- 文春オンライン「〈「あいつは戦犯じゃ」子どもに石を投げられ、部下たちの犠牲は“犬死に”扱い…戦後の零戦パイロットを苦しめた“理不尽すぎる仕打ち”とは〉 から続く」
- Yahoo!ニュース: https://news.yahoo.co.jp/articles/b06d4c12df289822d9abdb93022d56df548a066e