世界中で圧倒的な成功を収めている劇場版「『鬼滅の刃』無限城編 第1章・猗窩座再来」は、公開からわずか38日で興行収入280億円を突破し、海外でも観客動員数を増やし続けています。しかし、その輝かしい成果の裏で、「回想シーンが長すぎる」といった否定的な意見も一部で見受けられます。なぜこのような声が上がるのか、そして『鬼滅の刃』独自の魅力である長尺のモノローグは、映画表現としてどのように受け止められているのか。「鬼滅月想譚」の著者である四天王寺大学准教授の植朗子氏の考察を基に、この現象を深掘りします。
劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第1章の第3弾キービジュアル。猗窩座(あかざ)や炭治郎(たんじろう)など主要キャラクターが描かれ、作品の世界観を表現している。
劇場版「鬼滅の刃」無限城編、世界的な成功と「回想シーンの長さ」への賛否
劇場版「『鬼滅の刃』無限城編 第1章・猗窩座再来」の記録的な大ヒットは、国内外で大きな話題を呼んでいます。しかし、一部の観客からは「上映時間が長い」「回想シーンが長すぎる」といった意見が寄せられているのも事実です。8月22日に配信された「Real Sound」の記事「『鬼滅の刃 無限城編』海外で賛否両論に 『アクションの出来がいいだけに、テンポの悪さが気になる』」は、この議論が海外でも同様に存在することを示しています。
これらの意見を詳細に分析すると、興味深い傾向が見えてきます。「回想シーンが長い」と指摘する観客の多くは、その一方で「バトルシーンの完成度が高い」「戦闘シーンの音楽が良かった」「CGのクオリティーが高い」といった好意的な評価も同時に表明しています。これは、映画の視覚的な迫力や音響要素を特に重視する層にとって、長めの回想シーンが作品全体のテンポを損なう「無駄な要素」と感じられる可能性があることを示唆しています。彼らは戦闘中の過去のエピソードに対して、それほど強い関心を持てないのかもしれません。
観客が映画に求めるものと「鬼滅の刃」の作品性
元来、『鬼滅の刃』という作品は、作者である吾峠呼世晴氏が紡ぎ出す独特の言葉選びやセリフ回し、そして長めのモノローグが大きな特徴であり、多くのファンを魅了する要素の一つです。もしこれらの言葉を削ってしまうと、『鬼滅の刃』が持つ個性や深みが失われる可能性を秘めています。
漫画というメディアにおいては、読者自身が読む速度やストーリーを把握するペースを自由にコントロールできます。しかし、映画では観客全員が提供された時間軸に沿って物語を鑑賞する必要があるため、この点が大きな違いとなります。一般的に、映画化の際には平均的な上映時間である120分程度に収めるため、物語の一部を省略したり、エピソードの順番を入れ替えたりする手法がしばしば用いられます。
劇場版「鬼滅の刃」無限城編に登場する上弦の鬼たち。猗窩座(あかざ)の他にも強敵が控える無限城での激しい戦いを予感させるビジュアル。
漫画と映画の表現形式の違いと原作ファンの期待
「鬼滅の刃」の原作漫画は非常に根強い人気を誇っており、熱心なファン層はその映像化において「物語が改変されること」を強く望んでいません。彼らにとって、原作の言葉や心情描写は作品の核であり、映画という異なる表現形式であっても、その本質が損なわれることは受け入れがたいのです。
この状況は、映画製作側にとって大きな課題を突きつけます。視覚的なエンターテイメントとしての映画のテンポと、原作が持つ繊細な心情描写や独特の語り口をいかに両立させるか。特に、原作漫画に慣れ親しんだファンと、映画ならではのスピード感を求める新規の観客、それぞれの期待に応えるバランスを見出すことが、今後の映像化において重要な鍵となるでしょう。植朗子氏の考察は、この文化現象の深層を理解する上で貴重な視点を提供しています。
結論
劇場版「鬼滅の刃」無限城編に対する「回想シーンが長い」という一部の声は、単なる批判ではなく、映画というメディアと原作漫画が持つ表現形式の根本的な違い、そして観客がそれぞれの作品に求める価値観の相違を浮き彫りにしています。映像の迫力やテンポを重視する層がいる一方で、原作ファンの間には物語の改変を望まない強い感情が存在します。この複雑な状況は、ヒット作の映画化において、原作への忠実さと映像作品としての独立性の間でいかにバランスを取るかという、普遍的な課題を改めて提示しています。今後の『鬼滅の刃』の展開、そして他の人気作品の映像化においても、この議論は継続されることでしょう。
参考文献
- Real Sound. 「『鬼滅の刃 無限城編』海外で賛否両論に 「アクションの出来がいいだけに、テンポの悪さが気になる」」 2024年8月22日配信.
- 朝日新聞出版. 「鬼滅月想譚」 著者:植朗子.