山田裕貴、亡き父・山田和利さんの4年間のがん闘病と公表の真意を明かす

俳優の山田裕貴(34)が、去る8月16日に永眠した実父で元プロ野球選手・コーチの山田和利さん(享年60)について、1日深夜放送のニッポン放送「山田裕貴のオールナイトニッポン」で初めて胸中を語った。長らく公表されていなかった父の闘病生活、そして今回の訃報に至るまでの家族の葛藤と、息子である裕貴が抱いていた思いが明かされ、多くの人々の心に響いている。

4年間の闘病、公表を控えた父の意志と裕貴の思い

山田裕貴は番組冒頭、「8月16日の深夜ですね、山田和利が亡くなりまして、永眠致しました」と父の訃報を報告した。昨年8月には、父和利さんを含め一家で同番組に出演しており、その時のことを「本当に僕はいい思い出になったんですよ」と振り返った。この出演には深い理由があったという。

実は和利さんは約4年前からがんと闘病していたが、本人の強い希望により、ごく限られた身内や親しい友人以外には病状を明かしていなかった。中日ドラゴンズと広島カープに所属したプロ野球選手だった父が、誰にも挨拶をしないまま逝くことを裕貴は不本意に感じていたという。「これは僕は家族として、球団関係者の皆さまや、OBの皆さまや、父を応援してくれたファンの皆さまにも、あいさつせなあかんと」との思いから、亡くなってからの報告にはなったものの、自身のSNSで公表に至った経緯と感謝の気持ちを綴った。この公表後、多くの球団関係者や、父と同期だった元プロ野球選手の山本昌氏からも追悼のメッセージが寄せられたことに、裕貴は改めて父の存在の大きさを感じたという。

山田裕貴がラジオで父・山田和利さんの逝去と闘病の経緯を語る山田裕貴がラジオで父・山田和利さんの逝去と闘病の経緯を語る

プロ野球引退と「今年の顔」受賞、運命的な日の告白

父ががんと診断される前、山田裕貴には忘れられない日がある。2021年、「日経トレンディ」選出の「今年の顔」を受賞した日のことだ。自身初の栄誉に喜ぶ裕貴のもとに、父和利さんからの電話があった。「こんな日に、おまえが『今年の顔』なんか取った日にこんな報告で申し訳ないんだが、プロ野球の世界を退かなきゃいけなくなった」という突然の告白だった。コーチの任を解かれ、長年身を置いてきたプロ野球の世界から離れることになった父の言葉に、裕貴は「ああ、そうか、そうだよな、この世界はそういう厳しい世界だった」と受け止めた。そしてその時、「オレが頑張っていかなきゃいかんな、みたいな、託された感があったんですよ」と、父の思いを引き継ぎ、自身の俳優業に一層奮起する決意を固めたという。

闘病の始まりと、息子が抱いた「思い出作り」の真意

プロ野球の世界を退いた後、緊張の糸が解けたかのように、和利さんの体調に異変が起きた。選手時代には両膝を負傷しながらもコーチとして奮闘してきたタフな父が、初めて受けた検査でがんが見つかった。診断された際には「余命半年か1年」と告げられたというが、和利さんはそこから約4年間、病と懸命に闘い抜いた。

裕貴自身も、父の病状が悪化するたびに4度ほど覚悟を迫られたという。「『おかんのこと頼むな』みたいな。そこからもう1回、今度は電話で、みたいな。覚悟は何回か、なんとなくできて、自分の中ではしっかりしてたと思ってたんですけど」。そうした経験を経て、裕貴は「こんなこといっちゃあれですけど、思い出を作りたかったんです、僕はこのラジオで」と、家族で番組に出演した真意を明かした。父との貴重な時間を大切にしたいという、息子としての切実な願いが込められていたのだ。

山田和利さんの功績と、息子・裕貴の野球への想い

山田和利さんの訃報は、裕貴が8月26日に自身のX(旧ツイッター)で公表した。和利さんは愛知県出身で、東邦高校から1983年のドラフト4位で中日に入団。1991年には広島に移籍し、バイプレーヤーとして活躍。実働8年間で366試合に出場し、打率2割6分2厘、22本塁打、102打点という成績を残した。現役引退後は両球団でコーチを務め、2021年まで広島の2軍コーチを務めていた。

裕貴自身も、中学時代には硬式野球のクラブチームでプレーし、プロ野球選手を目指していた時期があった。「いつか父親のようになりたいと思ってました」と語るように、父の背中を追い、野球に打ち込んだ経験が、今の俳優・山田裕貴を形成する上で大きな影響を与えていることが窺える。

父の突然の告白から、共に歩んだ4年間の闘病。山田裕貴がラジオで語った言葉の数々は、亡き父への深い愛情と感謝、そして息子としての複雑な心情が込められており、多くの聴衆に感動を与えた。和利さんの功績と共に、その家族の絆は今後も語り継がれていくことだろう。