元官僚でありながらお笑い芸人へと転身した異色のキャリアを持つまつもと氏(47)が、自身の経験を通じて「中学受験」の奥深さと、その過程で得た「理想の育ち方」について語った。京都の難関校・洛星高校から京都大学・大学院へと進み、官僚としての道を歩んだ「受験エリート」が、42歳で新たにお笑いの世界に飛び込んだ背景には、中学受験での挫折と、そこから生まれた強い向上心があった。本稿では、まつもと氏の半生を振り返りながら、日本の教育システムにおける中学受験の位置付けとその影響を深掘りする。
元官僚芸人まつもと氏のポートレート写真。42歳で芸人の道へ進んだ異色の経歴を持つ。
「受験エリート」の原点:転校と御三家への憧れ
まつもと氏の幼少期は、NHK職員だった父親の仕事の関係で転居が多く、徳島、札幌、大阪と各地を転々とした。その後、長崎で小学5年生を過ごしていた頃、テレビで東京の「中学受験」に関するドキュメンタリー番組を目にする。麻布、開成、武蔵といった名門「御三家」が紹介される内容に触発され、もともと上昇志向が強かったまつもと氏は「こういう世界を目指したい」と強く思うようになったという。この強い思いが、小学6年生から塾に通い始め、中学受験に挑むきっかけとなった。
中学受験の挫折と現実:難関校の壁
いざ中学受験に挑んだ結果、まつもと氏は地元の長崎大学教育学部附属中学へと進学した。この学校は、試験がさほど難しくなく、学力層も多様な生徒が集まる場所であったと振り返る。一方で、併願した関西の難関校である洛南、洛星、そして福岡の久留米大学附設といった名門校には不合格となった。
中学受験について語る元官僚芸人まつもと氏。自身の経験から「身のほどを知った最初」と振り返る。
難関校に落ちた理由について、まつもと氏は当時の自身の能力差が歴然としていたと語る。難関校を目指すには、小学6年生からの準備では遅すぎたのだ。しかし、当時の彼はその事実を認めようとせず、「まともな受験塾がない長崎にいるからだ」と地理的格差のせいにして不合格の現実から目をそらした。この経験が、「意地でも都会に行って、受験戦争の最中に身を置かないとダメだ」という焦りの気持ちを抱かせ、後の進路に大きな影響を与えることになる。
青春の輝きと新たな挑戦:長崎、そして大阪へ
長崎大学附属中学での日々は、まつもと氏にとって非常に楽しい時間だったという。初恋も経験し、「人生で青春と言える時期があるとしたら、この学校での日々」と笑顔で振り返る。しかし、中学2年生の途中で再び父親の転勤により大阪へ引っ越し、公立中学に編入することになった。新たな環境でも、彼は目標を見失わず、近畿圏では有名な受験予備校に通い始め、高校受験に向けて邁進。その結果、第一志望であった洛星高校への入学を果たす。
洛星高校への強い思い:オーケストラが結んだ縁
まつもと氏は幼い頃からバイオリンを習っており、中学や高校ではオーケストラ部への入部を強く希望していた。オーケストラ部がある進学校は、関東では麻布、関西では洛星くらいしか選択肢がなかったという。そのため、中学受験の段階から洛星高校への強い憧れを抱いており、その思いが高校受験の原動力となった。この経験は、単なる学力だけでなく、自分の興味や情熱を追求することが、いかに学習意欲を高めるかを如実に示している。
官僚から芸人へ:多才なキャリアパスの背景
洛星高校から京都大学・大学院を経て、国家公務員試験に合格し、総務省や財務省で9年間官僚として勤務したまつもと氏。現在はコンサルティング会社に勤める傍ら、42歳で念願のお笑い芸人の道へ進み、「M-1グランプリ」で3回戦まで進出する実力を見せている。彼の多岐にわたるキャリアは、中学受験での挫折を乗り越え、自己の能力を客観的に見つめ、常に新たな挑戦を続ける彼の生き方を象徴している。今回のインタビューでは、自身の半生を振り返りながら、単なる学歴偏重ではない、真に豊かな「理想の育ち方」について深く考察する機会となった。彼の経験は、現代の親や子どもたちにとって、学歴だけにとらわれない多様な価値観と、自分らしい生き方を見つけるための貴重な示唆を与えるだろう。