今年8月、大手電機メーカーの東芝は本店所在地を東京都港区芝浦地区から川崎市へ移転しました。芝浦は、約140年前に東芝のルーツの一つである田中製造所が工場を構えた、由緒ある土地として知られています。この田中製造所を設立したのが、「からくり儀右衛門」の異名を持つ偉大な発明家、田中久重です。職人の子として生まれながらもその卓越した才覚で久留米藩の士分を得た彼は、万年時計をはじめ、蒸気船から製氷機まで多岐にわたる発明で人々を驚かせ、八十歳を超えてもなお、生涯現役で技術革新を追求し続けました。本稿では、激動の幕末から明治を生きた田中久重の晩年に焦点を当て、その尽きることのない情熱と日本の近代化への貢献を探ります。
日本の近代化に貢献した発明家、田中久重の肖像
久留米藩消滅、齢七十三にして新たな地へ
廃藩置県により久留米藩が消滅した際、田中久重は73歳という高齢に達していました。これは当時の平均寿命をはるかに超える年齢でしたが、彼は悠々自適に隠居生活を送るつもりは全くありませんでした。明治5年、高弟の田中精助が工部省の役人に任命された際、久重は「行け精助、我らの手腕を試すのだ。私もお前を追って上京するつもりだ」と力強く励ましています。そんな矢先、佐賀藩時代に世話になった佐野常民から、彼の傑作である万年時計をウィーン万国博覧会に出品したいとの連絡が入ります。これを受け、時計を東京まで運んでほしいという依頼があり、久重はこれを断りませんでした。明治6年正月、彼は養子の田中大吉や弟子の川口一太郎を伴い上京。これは久留米を離れ、東京で新たな人生を歩むという彼の強い決意の表れでした。
近代化する東京で挑む、発明家の情熱
田中久重が上京した当時、東京は急速な近代化の波にありました。東京―長崎間には既に電信線が敷かれ、新橋―横浜間には鉄道が開通。大火で焼け野原となった銀座の地には、西洋風の煉瓦街が次々と建設されている真っ只中でした。久重は、このように目覚ましく発展していく首都東京の中心で、自身の技術と創造力を試してみたいと考えたのです。しかし、せっかく運んだ万年時計は、理由は不明ながら万博に展示されることはありませんでした。一方で、工部省の役人として佐野に随行した精助は、ウィーンで西洋の最先端技術を学び、帰国後に日本の技術発展に貢献することになります。
麻布での新拠点と晩年の活躍
久重は上京後、しばらく麻布にある親類宅に身を寄せた後、やがて同じ麻布の大泉寺の二階や観音堂を借りて工場を設立しました。この新しい拠点で、彼は各種機械の製造に勤しみます。また、工部省電信寮に勤務する精助のツテを頼りに、生糸試験器や電信機の試作といった重要な仕事を次々と請け負い始めました。これら一連の活動は、彼が75歳の時のことです。さらに、翌明治7年には養子の大吉も工部省の汐留電信寮製造所に勤めることになり、田中一族は日本の近代化に深く関わっていきます。そして、明治9年には鉄製旋盤の製作に成功。これは官営赤羽製作所が同様の旋盤を開発するよりも1年も早い偉業でした。田中久重は老いてもなお、その意欲と創造力は衰えることなく、日本の産業発展に多大な貢献を果たしたのです。
結びに
田中久重の人生は、まさに「生涯現役」の発明家精神を体現していました。70歳を過ぎてなお、新たな挑戦を求めて東京に移り住み、日本の近代化の礎を築くために尽力した彼の情熱は、今日の私たちにも大きな示唆を与えます。東芝の源流である田中製造所の創始者として、彼の遺した技術と精神は、日本の産業界に深く根差しています。彼の不断の努力と先見の明こそが、現代日本が誇る技術立国の基盤を築いたと言えるでしょう。
参考文献:
- 河合 敦 著, 『侍は「幕末・明治」をどう生きたのか』, 扶桑社刊.