現代の日本の高等教育は、岐路に立たされています。多くの大学が国からの補助金なしには経営が立ち行かない状況に陥り、その数は増加傾向にあります。このような現状は、各大学がその創立時に掲げた「建学の精神」を忘れ、単に存続すること自体が目的と化してしまっているのではないかという、本質的な問いを投げかけています。教育思想家の高部大問氏は、この状況を「手段が目的と入れ替わっている」と厳しく指摘しています。国家の教育への関与が深まる中で、日本の大学は本来の使命をどのように果たしていくべきなのでしょうか。
福沢諭吉が訴えた「学問の独立」の真意
国家が人材育成を独占することには、常に注意が必要です。国家の意向に沿う人材のみが育つ「養殖された魚」のような状態は、現状のルールには適合するかもしれませんが、そのルールを改善したり、既存の枠を超越するような逸材や傑物の誕生を著しく阻害する可能性があります。
学問を奨励した福沢諭吉は、単に学問の重要性を説いただけでなく、「学問の独立」を極めて重視しました。彼は「政事と教育と分離す可し」と論じ、政治が教育に介入することに強く反対しています。その理由は、政治が「人の肉体を制するもの」であるのに対し、教育は「その心を養うもの」であるため、政治が教育を支配すれば「精神の奴隷(メンタルスレーヴ)」が跋扈する社会に陥ると考えたからです。(※1, ※2) 福沢は、国家による一方的な人材育成だけでは多様性に欠けると見なし、慶應義塾大学を創立することで、国家の奴隷ではなく、「独立自尊」の精神を持った人材を育てる私立の教育機関の必要性を体現しました。
日本の高等教育の課題を深く考察する識者のイメージ
在野精神を貫いた早稲田大学の創設者、大隈重信
同様の「学問の独立」への思いは、早稲田大学の創設者である大隈重信にも見られます。明治十四年の政変で下野した大隈は、東京専門学校(後の早稲田大学)を創立しました。彼は「活字を弾丸にして長州を撃つ」という言葉を残し、官僚主義に迎合せず、民衆と共に歩む「在野精神」や「反骨の精神」を標榜しました。(※3, ※4) この精神は、国家の権力とは一線を画し、独立した立場から社会に貢献する人材を育成するという、私学ならではの使命感を強く示しています。
社会奉仕を重んじた同志社大学の新島襄
日本東部だけでなく、西部の新島襄もまた、共通の課題意識を持っていました。新島は、中央で華々しく出世する優秀な人材も重要だと認めつつも、それ以上に、民衆と共に歩み、有事の際にはリーダーシップを発揮できる「社会奉仕型」の人材を重んじました。彼が同志社大学を設立した目的は、「自ら先生となるに非ずして、却って身を社会の犠牲となし、社会の進歩を計る人」を育てることにありました。(※5) これは、単なる知識の伝達に留まらず、社会全体の幸福と進歩のために自らを捧げる精神を養うことを目指した教育思想です。
教育の「見えざる副作用」:長期的な影響と国家介入の危険性
しかし、教育は一日にして成るものではありません。教師から受けた何気ない一言が、長い時間が経ってから心に深く響くといった「時間差効果」は、大人になれば誰しも経験するものです。教育効果にはタイムラグがあるため、その成功や失敗を容易に判断することはできません。
この「時間差効果」の裏側には、教育の「副作用」が潜んでいます。その効果がすぐには分からず、またその弊害にも気づきにくいという性質です。国家が「国家百年の計」といった名目で教育に深く介入する場合、聞こえは良いかもしれませんが、裏を返せば、教育の悪用に対する歯止めが効かなくなり、教育する側もされる側も、その潜在的な「副作用」に無自覚になりがちです。国家の思惑が先行する教育は、知らず知らずのうちに、本来育むべき自由な精神や批判的思考力を蝕んでしまう危険性を孕んでいるのです。
日本の高等教育が真に豊かであるためには、創立者たちが掲げた「学問の独立」や「在野精神」、「社会奉仕」といった建学の精神を再認識し、補助金依存から脱却し、多様で自立した人材を育む本来の使命を追求することが不可欠です。
参考文献
- 山住正己 編. 『福沢諭吉教育論集』. 岩波書店, 1991年, 120頁.
- 福沢諭吉. 『文明論之概略』. 岩波書店, 1995年, 233頁.
- 杉原幸子監修・渡辺勝正編著. 『決断・命のビザ』. 大正出版, 1996年, 34頁.
- 早稲田大学オフィシャルサイト.
- 沖田行司編著. 『人物で見る日本の教育[第2版]』. ミネルヴァ書房, 2012年, 106頁.