NHKの朝ドラ「ばけばけ」に登場する、小泉八雲をモデルとしたヘブン。彼が日本の松江で英語教師を務める姿は多くの視聴者の記憶に残ることでしょう。しかし、「なぜ小泉八雲は日本の、それも松江のような地方都市にやって来たのか」という疑問を抱く方も少なくないはずです。実は、彼が日本へたどり着き、松江に至るまでの道のりには、無計画なバックパッカーさながらの、知られざる苦難とトラブルが積み重なっていたのです。今回は、日本文学に大きな足跡を残したラフカディオ・ハーンこと小泉八雲の、波乱に満ちた来日当初の真実に迫ります。
「特派員」としての来日、しかし現実は…
小泉八雲がバンクーバー経由の汽船で横浜に到着したのは、明治23年(1890年)4月4日のことでした。この時、八雲はアメリカの著名な出版社ハーパーズ・マガジンの特派員、あるいは通信員という肩書きを持っていました。ハーパーズ・マガジンとは、彼が以前西インド諸島に滞在した際の紀行文が掲載されて以来の付き合いでしたが、その関係は決して良好なものではありませんでした。
日本行きは彼にとって長年の念願であり、船賃を負担してくれたハーパー社には当初感謝していたかもしれません。しかし、横浜に到着した途端、そんな感謝の気持ちは一瞬で吹き飛んでしまいます。八雲は、一定期間日本に滞在し、自身の文章で紀行文を書き上げたら帰国するつもりで契約を交わしていました。ところが、実際に日本に到着して分かったことは、契約内容がまったく異なるという事実だったのです。
屈辱的な契約内容と、突然の契約解除
八雲は、同行する挿絵画家チャールズ・ウェルドンが自身の紀行文に絵を添えるものと考えていました。しかし、実際の契約内容はその逆で、挿絵画家が描いた文章に、八雲が文章を書き加えるというものだったのです。さらに、挿絵画家の報酬は八雲よりもはるかに高額でした。何よりも衝撃だったのは、ハーパー社が船賃は出したものの、日本での滞在費やその他諸経費を支払うつもりがなかったことでした。
売れない中年作家とはいえ、強固な自尊心を持っていた八雲にとって、これは筆舌に尽くしがたい屈辱でした。彼はすぐにハーパー社へ契約解除を求める手紙を送りつけ、この不本意な関係を断ち切ることを決意しました(広瀬朝光『小泉八雲論 研究と資料』1976年)。来日早々、八雲は予期せぬ困難に直面し、異国の地で孤立無援の状況に陥ってしまったのです。
 日本文学に多大な影響を与えた作家、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の肖像。彼の波乱に満ちた来日当初の苦難を物語る一枚。
日本文学に多大な影響を与えた作家、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の肖像。彼の波乱に満ちた来日当初の苦難を物語る一枚。
横浜での財政難:所持金わずか3ヶ月分
この時、八雲が全財産として持っていたのはわずか250ドルでした。当時の為替相場で日本円にして約250円ほど。現在の貨幣価値に換算すると、約600万〜650万円に相当し、一見するとかなりの手持ちがあるように思えます(『日本銀行百年史 資料編』日本銀行 1986年)。しかし、当時の日本において、外国人が滞在するための費用は極めて高額でした。
例えば、横浜の外国人居留地にあった有名な横浜グランドホテルの滞在費は、一月あたり2食付きで58ドルとされていました。八雲が滞在した宿はこれよりも安価だったとされていますが、それでも外国人が泊まれるような宿泊施設は限られており、総じて宿泊費が高額だったことは想像に難くありません。つまり、諸費用も含めれば、八雲が持っていた250ドルでは、わずか3ヶ月程度しか日本での生活を維持できなかったと推測されます。
契約解除と同時に生活費の目処が立たなくなり、小泉八雲は、念願の日本に到着したばかりというのに、いきなり絶体絶命の財政難に陥ってしまったのです(永田雄次郎「ラフカディオ・ハーンと石仏の美:横浜から熊本までの時」『人文論究』第61巻4号)。これが、彼が松江へと向かうことになった、波乱の旅の始まりだったのです。
まとめ
小泉八雲の来日当初の状況は、朝ドラが描くようなロマンチックな英語教師の姿とは異なり、厳しい現実と隣り合わせでした。ハーパーズ・マガジンとの契約は屈辱的で、来日直後に解除を余儀なくされ、手持ちの資金も限られていました。この予期せぬ財政難と、異国の地での「詰んだ」状況が、彼を新たな職と安住の地を求めて旅立たせ、最終的に松江へと導く大きな要因となったのです。小泉八雲の生涯は、まさに波乱と探求の連続であり、その壮絶な来日当初の苦難は、彼が日本文化を深く理解し、世界に紹介する偉大な作家となるための、避けられない試練だったと言えるでしょう。
参考文献
- 広瀬朝光『小泉八雲論 研究と資料』近代文芸社、1976年。
- 日本銀行『日本銀行百年史 資料編』日本銀行、1986年。
- 永田雄次郎「ラフカディオ・ハーンと石仏の美:横浜から熊本までの時」『人文論究』第61巻4号、関西学院大学、2011年。
 
					




