豊臣家の滅亡は避けられない運命だったのか、それとも選択された結末だったのか――国際日本文化センター名誉教授の笠谷和比古氏が著した『論争 大坂の陣』(新潮選書)は、この歴史的問いに新たな光を当てています。同書は、大坂の陣の勝敗が単なる軍事的な決着に留まらず、戦の陰に潜む人間の深い葛藤によって決まったことを検証しており、徳川家康が豊臣秀頼を滅ぼすまでの道のりにおける複雑な内面を探求しています。
養源院に所蔵される豊臣秀頼の肖像画
家康の「死後」への関心と仏教論義
大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼした後、徳川家康は慶長20年(1615年)5月8日に京都・二条城へ凱旋しました。しかし、彼の関心は勝利の余韻に浸るよりも、仏教諸宗の僧侶を集めて盛んに論義を行い、自らも熱心に聴聞することに移りました。天台、真言、浄土、曹洞といった各宗派の論義が開かれ、「肉身を指して即身成仏か、肉身を捨てず成仏か」といった死生観に関する問いが散見されます。
笠谷氏は、この家康の行動について、豊臣氏滅亡後、彼の関心が現実政治から「死後の世界」へと変化したことを指摘しています。東京大学名誉教授の山内昌之氏も、かつて著書『将軍の世紀』でこの時期の家康の姿を描き、秀吉から託された秀頼を母淀君とともに死に追いやったことへの深い因果と悔悟の念が、諸宗論義を通じて深省されようとしたのではないかと解釈しています。家康が孫婿にあたる秀頼の命を奪ったことに対する罪悪感が、彼の晩年における精神的な探求を促した可能性を示唆しているのです。
大坂の陣、最終決戦における家康の逡巡
『論争 大坂の陣』で特に注目されるのは、大坂夏の陣における最終決戦当日、慶長20年5月7日の出来事です。笠谷氏の分析によれば、陣立てが完了した朝方から、総攻撃が開始される午後1時頃までの間に、異例の長い時間が経過しています。家康は、戦闘命令を発するまで6時間もの間、部隊を待機させたのです。軍法上、これは極めて異例の状況でした。
笠谷和比古氏による新潮選書『論争 大坂の陣』の書影
笠谷氏は、この長い沈黙期間を、家康が命令を下すことを「逡巡した」証拠としています。そもそも家康の出陣は、豊臣家の無力化を目的としており、最初から家を滅ぼすまでの決意があったわけではないと考察されています。最終的に想像を絶する大激戦となり、秀頼と淀殿の命まで奪わざるを得なかった展開に、家康は深い悔悟の念を抱いていたであろうと笠谷氏は明言しています。秀吉が秀頼の行く末を哀願したことに対する家康の罪責の念は、計り知れないほど大きかったに違いありません。
豊臣家滅亡の真実と家康の人間性
笠谷和比古氏の『論争 大坂の陣』は、単なる戦史の記述に留まらず、徳川家康という稀代の天下人の内面に迫ることで、豊臣家滅亡という歴史的事件の新たな解釈を提示しています。豊臣家の滅亡は、冷徹な計算に基づく必然ではなく、戦の渦中で多くの人間の葛藤や後悔が絡み合い、最終的に選び取られた結末であった可能性を示唆しています。家康の死後への関心や、最終決戦における逡巡は、彼が単なる覇者ではなく、深い人間的苦悩を抱えていたことを浮き彫りにしています。





