豊臣秀頼は徳川家への服従を表明した後も、なぜ「秀頼様」と最上級の敬称で呼ばれ続けたのか?


依然として「秀頼様」

特別待遇を受けた越前松平家

 単なる一大名として扱うことも憚られた。そもそも二条城会見で家康は、徳川と豊臣との対等の相互関係を要望したのだった。しかるに秀頼の自発的意思でもって、徳川の優位、主導性が確定した。
 
 そのような事情からして、秀頼と豊臣家とを一大名として徳川の支配下に置くことは憚られた。徳川幕府の発する法令への遵守義務を明記した三ヶ条誓詞への署名からも除外されるとともに、ある特別待遇が用意されることとなる。
 
 このような一大名ではなく、しかも徳川幕府の支配秩序に組み入れられつつも、なお特権的な待遇が許されている存在、それは「制外の家」と呼ばれていた。筆者はかつて幕藩体制下における越前松平家をそのようなものとして論述したことがある。
 
 家康の二男である結城秀康から始まる越前国67万石を領有する越前松平家は、家康の三男秀忠によって継承された徳川将軍家の兄筋にあたる家柄であったところから、将軍にも遠慮の気味があり、越前松平家の側は将軍に対しても優越的な家柄とする自負もあって、越前松平家は将軍の支配から自由な「制外の家」と称せられたことがあった。
 
 いま公儀としての地位を放擲し、徳川将軍家の支配に服するという態度を表明した豊臣家の位置づけは、この「制外の家」の概念に近いのではないか。



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