「お国のために…」と散っていった特攻隊員たち。故郷の村人から「誇らしい」「立派だ」と死後に讃えられた若者たちが、どれほどの計り知れない葛藤を抱えて飛び立っていったのか。我々は、同じ過ちを繰り返さないためにも、彼らの遺族の思いを語り継いでいかねばなりません。本稿では、残された家族に話を聞き、陸軍特攻隊「靖国隊」に焦点を当て、その生と死の記録を紐解きます。
海軍に続いた陸軍特攻隊「靖国隊」の編成
特攻作戦が始まった直後の昭和19年11月初旬、朝鮮半島の群山を拠点とする航空隊で陸軍の「靖国隊」が編成されました。この部隊は、フィリピンに送られ、11月24日の初出撃以降、10名が戦死しています。靖国隊は、前月に特攻に踏み切った海軍が大きな戦果を挙げ、新聞やラジオ、ニュース映画で国民が熱狂する様子を目の当たりにした陸軍が、「海軍の後塵を拝してはならない」という焦りから急きょ編成した8つの隊の一つでした。
靖国隊は、群山から東京立川の基地へ移動して編成式を行い、鹿児島の知覧を経て、台湾、フィリピンへと進出しました。立川などで撮影された映像は3分30秒ほどに編集され、「第235号日本ニュース」の「比島戦線 陸軍特別攻撃隊『靖国』飛行隊」として全国の映画館で公開されました。このニュース映画の封切りは、靖国隊の初出撃直後である11月30日のことでした。
特攻隊を思わせる空を飛ぶ飛行機のイメージ
隊員たちの故郷と残された家族の沈黙
隊長の出丸一男中尉の故郷である熊本市では、同じ時期に3名の陸軍士官学校出身者が特攻隊員として戦死しています。昭和20年1月8日には、市内の青少年団員およそ800人が出席し、彼らを讃える自作の「綴り」の朗読が行われ、遺族に手渡されたことが知られています。おそらく出丸家にもそうした綴りが贈られたのでしょう。
しかし、出丸中尉の出身校である旧制濟々黌中学(現・県立濟々黌高校)のすぐそばにあったとされるご自宅は、戦時中の空襲で焼失しており、綴りは残されていません。出丸中尉は2男3女の長男でしたが、甥(妹の息子)にあたる徹さんの証言によれば、祖父母は出丸中尉のことについて、生前、多くを語ることはなかったといいます。家族が胸に秘めた沈黙は、特攻隊員の個人としての苦悩と、その死がもたらした深い悲しみを物語っています。
慰霊の品々に込められた思い
戦死した特攻隊員の遺族の元に届けられた慰霊の品々は、隊員それぞれの故郷や家族の状況に応じて様々でした。大阪出身の谷川昌弘少尉の遺族には、地元の洋画家・小磯良平の手による飛行服姿の肖像画が贈られています。また、山口出身の村岡義人軍曹のご自宅にも軍服姿の肖像画が飾られていました。
誰がこれらの画家に依頼し、どのような経緯で制作されたのかを示す証拠はまだ見つかっていませんが、隊員の慰霊顕彰は当時、軍と行政が中心となって行っており、そのいずれかによるものだと考えられています。谷川少尉は男ばかり5人兄弟の三男で、ご実家がお寺でした。寺を継いだ長男の娘である青木明子さんが、谷川さんの遺品を受け継いでおり、今もなお家族の中で記憶が継承されています。これらの慰霊の品々は、亡くなった隊員たちを偲び、その記憶を留めるための大切な証として、遺族のもとで大切に保管されてきました。
終わりに
特攻隊員たちの「お国のため」という大義の裏には、個人の計り知れない葛藤と、残された家族の深い悲しみがありました。陸軍「靖国隊」の隊員たちの事例からも、その現実は明確に浮かび上がります。私たちは、彼らの壮絶な生と死の記録、そして遺族の沈黙の奥に秘められた真実を、決して風化させてはなりません。これらの記憶を次世代へと語り継ぐことこそが、再び過ちを繰り返さないための、現代を生きる私たちの使命であると言えるでしょう。





