【評伝】改革の「闘士」、故郷の前途に心痛め 松田昌士氏死去

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松田昌士氏

松田昌士氏

 昨年11月の中曽根康弘元首相に続き、昭和最後の大改革といわれた国鉄改革を推進した「闘士」がこの世を去った。

 東京大法学部卒がひしめく旧国鉄キャリア組の中で、最終学歴が地元の北海道大大学院。そのまま大学に残る考えだったが、札幌駅長を務めた父の後を継いだ。

 企画立案部門が長く、旧経済企画庁や旧運輸省に出向した経験もあり、「プランナー」を意識するようになったという。また、現場の最前線に立ったときは、サボタージュを繰り返す労働組合に対し個々の組合員に狙いを定めて指導する「個別撃破」で切り崩しにかかった。

 労組との協調路線を取る経営陣を目の当たりにし、「本社を根本的に変えるしかない」と決意する。当時の経営陣ににらまれて左遷を経験しても、井手正敬氏(後のJR西日本社長)や、葛西敬之氏(同JR東海社長)らと組んで国鉄分割・民営化を主導した。

 民営化後はJR北海道で働く考えだった。故郷に貢献したい思いと、JRの中で最も経営難が予想される中、「北海道単独ででも『やれる』と思った」からだという。JR東日本の経営から退いた後も、経営不安や一時は事故が多発していたJR北海道、それに故郷の前途に心を痛めていた。

 民営化から約30年にわたる思いを、平成28年末連載の「よみがえれJR北海道」で語ってくれた。在来線の高速化に向けた路線基盤の強化、集客を目的とした駅の「サロン」化、青函連絡船「復活」による青函トンネル内の新幹線スピードアップ-といった大胆なプランを掲げた。

 「国が株主とはいえ、民間会社として国鉄時代よりも経営は自由だ。北海道らしい独自のアイデアを生み出し、北海道に夢を与える経営をやってほしい」。インタビューでJR北海道にこうエールを送ったが、同社がよみがえる兆しはみえない。

 最後の面会は昨年10月だった。ひと回り細くなった体形について、紫煙をくゆらせながら「ダイエットに取り組んだんだよ」と笑顔で答えた。今年に入って腹部の異常を訴え、肝臓がんが発覚。抗がん剤治療に取り組んだが、娘婿の急逝という悲報に接し、新型コロナウイルス感染拡大の騒ぎの中、静かに息を引き取ったという。(今堀守通)

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