1938年、岡山県の集落で発生した大量殺人事件「津山三十人殺し」。わずか1時間半で約30人もの村人が次々と殺害されたこの凄惨な事件の背景には、犯人の心を追い詰めた要因があった。当時の村人との人間関係を紐解き、事件の深層に迫る。
犯人である睦雄が自らの人生に絶望し、村人を殺戮しようという狂気に支配されるに至った直接的なきっかけは、昭和10年(1935年)春、貝尾の集落に突如として広まった睦雄のロウガイスジ(結核を発症しやすい家系)に関する噂だった。この噂は「睦雄の両親が二人とも結核で亡くなった。睦雄の家はロウガイスジという恐ろしい呪われた家筋だ」というもので、睦雄が二度目の肋膜炎を再発させる直前の時期に広がった。
この噂の出所は、以前から睦雄と深い関係にあり、昭和10年春に睦雄が大きな恥辱を受けたと遺書で訴えた西川トメである可能性が高いと考えられている。睦雄自身が西川トメに対し、自身のロウガイスジについて話していた。この話は、その直前に睦雄名義の倉見(睦雄の生誕地)の屋敷売却交渉の際に睦雄が倉見で聞き及んだものだった。
噂が広まって以降、それまで睦雄に好意的だったり、夜這いの相手をしていた西川トメや寺井マツ子といった村の女性たちは一斉に態度を翻した。彼女たちは睦雄を笑い者にして貶め、さらに侮辱した。金銭と引き換えでなければ、睦雄と関係を持とうとする女性はいなくなった。
睦雄が精神的に不安定になっていた理由の一つとして、睦雄にとって唯一の肉親である姉のみな子が、昭和9年(1934年)に嫁いで家を出ていったことも挙げられる。ロウガイスジの噂が広まったことで、集落の女性たちは睦雄に対する態度を急変させた。そして、睦雄の心の安全装置ともいうべき存在だったみな子が嫁いで家を出てしまった。こうして、昭和10年の春、睦雄の心の中の“何か”が壊れた。同時に、睦雄のなかに貝尾の村人の大半を殺害してしまおうという“殺意”が芽生えたのである。
貝尾で分かれた二つのグループ
この時、貝尾における睦雄を巡るグループは大きく二つに分かれていたという。一つはいね(睦雄の祖母。血縁関係はない)の親戚にあたるグループで、これは寺井一族(元一、勲、茂吉など)や、役場の職員で貝尾一のインテリである西川昇一家などで構成されていた。このグループに属する人々は、少なくとも露骨に睦雄のロウガイスジを差別することはなかった。ただし、睦雄と関係のあった寺井マツ子(いねの甥の弘の妻)だけは例外で、ロウガイスジの睦雄に対し、他の村の女性と同様の態度をとっていた。
もう一つのグループは、村の圧倒的多数を構成するその他の人々だった。彼らはロウガイスジの睦雄を仲間外れにし、事実上の村八分状態へと追い込んでいった。村の女性たちの大半はこのグループに属していたことは、睦雄の恋した寺井ゆり子の証言からも窺える。「むつおさんが、道路の前のほうから歩いてくるのを見かけたら、怖かったので、逃げました。道路から外れて、田んぼのあぜ道を歩いて、むつおさんを迂回して避けていました。わたしだけじゃない。ほかの女の人たちも、みんなそうでしたよ」
日本の山間にある集落の風景イメージ。津山事件の舞台となった場所の雰囲気を表現。
結核(労咳)を恐れるあまり、ゆり子のような反応をする者は珍しくなかった。それほど結核という病は当時恐れられていたのだ。幼い子どもを抱える母親たちも強い嫌悪や恐怖の念を睦雄に対して抱いた。
ロウガイスジの肺病持ちは化け物扱いされた
当時のロウガイスジの肺病の持ち主に対しては、おおむね同様のいじめのような仕打ちが行なわれたという。加茂谷の昔の暮らしぶりをよく知るある古老は次のように語っている。「……(古老の証言、原文では略されているが文脈から推測される内容:肺病患者は避けられ、差別された、まるで化け物のように扱われた)……」
結核への根強い恐怖、そしてそれに基づく集落内での差別と孤立、さらに身近な女性たちからの裏切りと唯一の肉親である姉の不在。これらの要因が重なり合い、睦雄を深い絶望と村全体への殺意へと駆り立てていったのである。津山事件は、単なる猟奇殺人の側面だけでなく、当時の僻地における閉鎖的な人間関係や病気への無理解が引き起こした悲劇としても捉えることができる。
参考文献
石川 清『津山三十人殺し 最終報告書』(二見書房)