「作品を見てくださった方には、専門家の立場として、本当にお詫(わ)びの気持ちでいっぱいでございます」――スーツ姿の男性は、集まった約40人の前で深々と頭を下げた。この人物は、徳島県立近代美術館の竹内利夫上席学芸員だ。同館の1階ロビーに展示されている一枚の油彩画、『自転車乗り』を前にしての謝罪だった。この作品は、かつて20世紀前半のフランスの著名画家、ジャン・メッツァンジェの作とされていたが、衝撃的な真実が明らかになったのだ。
約26年もの間、同館に所蔵されてきたこの絵画は、ドイツ人贋作師ヴォルフガング・ベルトラッキ(74)によるものであると断定された。この事実は、昨年6月に国立西洋美術館の関係者から情報が寄せられたことから始まり、7月にはベルトラッキ本人が「私が描いた」と主張したことで確実となった。そして、今年3月25日には東條揚子館長が記者会見を開き、調査結果を正式に公表するに至った。開館35周年を迎えた歴史ある美術館が、なぜこのような贋作を長期間見抜けなかったのか。そこには、緻密で執念深い贋作師の罠が仕掛けられていた。
贋作発覚の経緯と「天才」詐欺師の手口
贋作『自転車乗り』の発覚は、外部からの情報提供とベルトラッキ自身の告白という、異例の形で進んだ。特に、ベルトラッキが自ら描いたと主張したことは、この贋作問題に決定的な重みを与えた。彼は過去にも多数の贋作を制作し、アート市場を欺いてきた人物として知られている。
アートディーラーによると、ベルトラッキの贋作の手口は非常に巧妙だ。科学鑑定を回避するため、彼は骨董市などで入手した古いキャンバスを使用し、作品が描かれたとされる年代に見合った顔料を用いて絵を描く。さらに、作品の「来歴」を偽造し、偽の鑑定書や、時には画家本人が書いたとされる偽の手紙まで用意するという。これらの偽装された資料を添えることで、贋作に正当な作品であるかのような装いをさせ、市場に流通させていたのだ。ベルトラッキの贋作に対する執念は凄まじく、単に技法を真似るだけでなく、作家の制作環境まで再現し、例えば作家が左利きであれば左手で描くといった徹底ぶりだったとされる。彼の贋作は欧州を中心に300点以上流通したとされ、2011年には詐欺罪で有罪判決を受けて服役しているが、今なお世界中に彼の贋作が散らばっていると考えられている。
なぜ老舗美術館は騙されたのか?
徳島県立近代美術館は、問題の『自転車乗り』を1998年に大阪の画廊から6720万円で購入した。この購入時には、作品に鑑定書が添付されていた。当時の担当者らは、この鑑定書に加え、作品がジャン・メッツァンジェの全作品をまとめた目録(カタログ・レゾネ)に掲載される予定であったことを根拠に、作品に対する疑念を抱かなかったという。
竹内上席学芸員は、「よく、本物の絵はどこにあるんですかと質問があります。しかし本物は″存在しない″んです。この絵は、その頃のフランスにいたメッツァンジェの絵の描き方だけを真似て作った捏造なんです」と説明する。これは、ベルトラッキが特定の画家の特定の作品を真似るのではなく、その画家の様式で「ありそうだった作品」を新たに創造するという手口をとっていたことを示している。その結果、「画廊から専門家まで、みんな騙されてきた」という状況が生まれたのだ。美術館のような専門機関ですら見抜けないほど、ベルトラッキの贋作は精巧だったと言える。
徳島県立近代美術館で贋作「自転車乗り」について説明する竹内上席学芸員
学芸員の苦悩と「贋作」公開の意図
今回の贋作発覚について、竹内上席学芸員は複雑な胸の内を明かしている。特に、ベルトラッキが服役を終えた後のインタビューで「もう作者名はいいじゃない、みんな感動したし。高いお金で買った良い作品っていうだけでしょ」と語っていたと聞き、「唖然とした」という。「それは詐欺師の詭弁です」と強く否定し、自身も長年この絵を真作として解説してきただけに、「非常にやるせないというか、悔しいところなんです」と語った。
竹内氏は、「真作と信じて観ていた方が、『私ってやっぱりアート、わからんのやな』と思われたとしたら、それは違います。(贋作師に)観る人の心をうまいこと弄(もてあそ)ばれただけで、悪いのはそれを紹介してしまった美術館です」と、来場者の感情への配慮を示しつつ、美術館側の責任を強調した。その声には、落ち着きながらも、長年の思いと現在の状況に対する悔しさがにじんでいた。
このような経緯から、徳島県立近代美術館は、来場者一人一人への謝罪と説明を行う機会として、5月11日から6月15日までの期間、この贋作『自転車乗り』の無料公開を実施した。美術館の学芸員責任者が、観客に対して誠実に説明責任を果たそうとした姿勢は、多くの評価を得ている。
ヴォルフガング・ベルトラッキによる贋作「自転車乗り」(ジャン・メッツァンジェ作とされていた)
止まらない贋作の連鎖:他の美術館への影響
徳島県立近代美術館は今後、この贋作を科学調査機関でさらに詳しく分析する予定だ。並行して、作品を購入した画廊側との間で、費用負担や返金請求の可能性についても検討を進める方針を示している。
しかし、この贋作問題は徳島県立近代美術館だけに留まるものではない。実は、高知県立美術館でも、ベルトラッキによる贋作と判明した作品が存在する。「少女と白鳥」と題されたその作品についても、高知県立美術館は同様に9月から贋作として一般公開する方針を明らかにしている。これは、ベルトラッキによる贋作が日本の他の美術館にも及んでいる可能性を示唆しており、国内のアート界全体にとって看過できない問題となっている。
多くのメディアはベルトラッキを「天才贋作師」と表現することがあるが、人を欺き、美術館やコレクター、そして何より美術を愛する人々の信頼と心を弄んだペテン師を安易に礼賛するべきではないという意見も強い。今回の徳島県立近代美術館での出来事は、贋作の巧妙さだけでなく、それが引き起こす影響の深さと、それに関わる人々の苦悩を浮き彫りにしている。
FRIDAY 2025年7月11日号
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