オーストラリア・シドニーのラジオ局で平日毎日、ヒップホップ番組を進行していた女性DJの「サイ(Thy)」氏。7万人以上が数カ月にわたり番組を聴き親近感を覚えていたが、その実態はAIだった。存在しない人物でリスナーを裏切ったとして、豪メディアなどが問題視している――。
■シドニーで起きた“架空ラジオDJ事件”
ありふれた日常の瞬間を、笑いや温もりで満たしてくれるラジオ番組。テレビやNetflixなど映像コンテンツが人気を博す今も、ラジオを愛する根強いファンは絶えない。
人気の秘密は、DJ(番組パーソナリティ)の人間味が直に伝わってくる点だろう。毎週お気に入りの番組にダイヤルを合わせれば、「先週末は家族とこんな愉快なイベントに行った」「新幹線での移動中にこんな理不尽な出来事があった」など、DJが実生活で体験した意外なエピソードを披露してくれる。
単に音楽をかけたり最新トピックを紹介したりするだけでなく、個性あふれる体験談から笑いや新たな視点が生まれる。お気に入りの進行役の人となりが生み出す人間ドラマこそ、長年ラジオが愛される秘密だ。
ところがオーストラリアで、7万人以上の人々が親しみをもって愛聴していた番組ホストが、実はAIだったという事件が発生した。リスナーたちは大きな裏切りだと感じており、また、放送現場のプロたちは、AIに職を奪われる時代が到来したと危機感を募らせている。
■7万人以上が聴いたのに誰も気づかない
問題となったのは、シドニー西部向けのラジオ局CADAの番組だ。オーストラリアの大手ラジオネットワーク・ARNメディアが運営している。同局で昨年11月、平日毎日4時間の番組「Workdays with Thy(サイと過ごす平日)」が放送スタートした。ヒップホップやR&B、ポップスを流す音楽番組だ。オーストラリアン・フィナンシャル・レビューによると、番組のリスナーは少なく見積もっても7万2000人いたという。
番組のウェブページには「仕事中、運転中、公共交通機関での通勤中や、または大学にいる間、サイが世界中から最新のトラックをお届けします」と綴られている。ほかの音楽番組と特段変わった点はないが、実はサイはAIによる合成音声だった。数カ月聴き続けたリスナーたちも、誰もがサイを実在の人物だと信じ込んでいた。
放送開始からほぼ半年が経った今年4月中旬、転機が訪れた。ニュースサイト「カーペット」で執筆するジャーナリストのステファニー・クームズ氏が、サイについて疑問を呈したのだ。「サイの名字は何? 彼女は誰? 経歴は? 番組を進行しているというこの女性について、経歴も詳しい情報も、何も開示されていない」とクームズ氏は指摘した。
厳密には、サイにはモデルが存在する。シドニー・モーニング・ヘラルド紙によると、運営のARNメディアに所属する女性従業員だ。しかし、彼女は財務部門に所属しており、DJではない。彼女の肉声をサンプリングして、AIソフトで合成音声をしゃべるようシステム化した。
オーストラリアン・フィナンシャル・レビューは、米スタートアップのイレブンラボ(ElevenLabs)の技術で作られたと報じている。音声複製技術を手がける同社は、人が話す音声を、わずか数分間の録音音声をもとに生成できると謳っている。最新技術の結晶だが、一方、番組司会に親しみを持っていたリスナーの立場からすれば、期待を裏切られたと感じたことだろう。