戦争トラウマの実相:80年を経て浮上する心の傷、沖縄・伊江島の証言から

戦後80年という節目を迎え、これまで十分に光が当てられてこなかった一つの深刻な問題が、ようやく注目を集め始めています。それは「戦争トラウマ」です。戦地に赴いた兵士だけでなく、その地域で被害を受けた一般住民もまた、心に深い傷を負いました。この見えざる傷は、戦後社会において不眠、悪夢、アルコール依存、さらには子どもの虐待といった様々な形で表面化し、その影響は現代にも連鎖していると指摘されています。本記事では、戦争が日本社会に深く刻みつけたトラウマの実態に、生存者の証言を通して迫ります。

長期にわたる「心の傷」:戦争トラウマの連鎖

戦争トラウマとは、直接的な戦闘経験や、戦争に伴う暴力、死、破壊などを目の当たりにすることで心に負う精神的な傷を指します。その症状は多岐にわたり、夜中にうなされる悪夢、慢性的な不眠症、常に不安や恐怖を感じる状態、感情の麻痺、そして現実からの逃避としてのアルコール依存症などが挙げられます。さらに深刻なケースでは、親が子どもに対して精神的・身体的な虐待を行ってしまうなど、家庭内での問題として現れることも少なくありません。これらの「心の傷」は個人の問題に留まらず、世代を超えて連鎖し、家族全体や地域社会にまで影響を及ぼし続けることが、近年の研究で明らかになっています。

沖縄戦の記憶:伊江島での過酷な体験

沖縄県北谷町に暮らす並里千枝子さん(89)は、まさにその戦争トラウマを体験し、語り続けている一人です。彼女は沖縄本島の北西に位置する伊江島の生まれで、1945年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸し沖縄戦が本格化した際、わずか9歳でした。米軍からの艦砲射撃が容赦なく続く中、並里さんは家族とともに、日本軍が地下約20メートルに構築した壕(ごう)へと避難しました。そして数日後の4月16日、ついに伊江島にも米軍が上陸。戦況は日ごとに悪化の一途を辿っていきました。

沖縄戦のトラウマを語る並里千枝子さん。その表情は過酷な記憶を物語る。沖縄戦のトラウマを語る並里千枝子さん。その表情は過酷な記憶を物語る。

壕内で起きた悲劇:手榴弾と集団自決

壕内の日本兵たちは総攻撃に出る直前、「絶対捕虜になるな」と、避難していた住民たちに手榴弾を配り始めました。兵士たちが出て行くと、壕内はわずかに広くなったものの、今度は寝る場所の取り合いが始まりました。並里さんの家族は、弾薬が置かれていた薄暗い横穴へと追いやられました。そこは酸素が薄く感じられ、肌がチクチクするような不快な場所だったと言います。

日本兵がいなくなった翌日、突然誰かが手榴弾を炸裂させました。それが引き金となり、壕内で「集団自決」が始まったのです。瞬く間に、あちこちで爆発音が響き渡り、阿鼻叫喚の地獄絵図と化しました。並里さんの家族は、奇跡的に横穴にいたおかげで助かりました。弾薬が入っていた木の箱を盾にし、奥に身を隠し、持っていた手榴弾も爆発させずに済みました。それは、戦地に向かう父が最後に言った「死ぬな」という言葉が、並里さんの胸に深く刻み込まれていたからでした。

記憶に刻まれた救済の叫び

相次ぐ手榴弾の爆発で、壕内には煙が充満し、息をするのも困難な状況でした。並里さんは、無数の死体を踏みつけながら、必死に入り口の近くまで移動しました。暗闇の中、まだ息のある死にきれない人々のうめき声が響き渡る中、突如として隣に住んでいた親友の声が聞こえてきました。「千枝子、助けて。水……」。並里さんはその友人の名を呼びながら、暗闇の中へと足を進めました。その時、突然冷たい大きな手に左足首を掴まれ、並里さんはそこで意識を失いました。次に意識が戻ると、祖母に抱かれていました。もう、友人の声は聞こえません。後に母から「水をあげたら、(友人は)ゴクンゴクンと飲んだよ」と聞かされたと言います。

伊江島制圧と犠牲者の記録

記録によると、伊江島は1945年4月21日に米軍に完全に制圧されました。この戦闘で、約2000人の日本兵はほぼ全滅し、村民も約1500人が犠牲になったとされています。並里さんが家族とともに逃げ込んだとされるユナパチク壕での「集団自決」は、4月23日に発生し、約80人が命を落としたと伝えられています。

結び

並里千枝子さんの証言は、戦争が人々の心に残す深い傷、すなわち「戦争トラウマ」がいかに過酷で、その影響が長く続くものであるかを私たちに改めて教えてくれます。単なる物理的な被害に留まらず、精神的な苦痛が世代を超えて引き継がれる可能性を持つこの問題は、戦後80年を迎える現代において、より一層の理解と支援が求められています。戦争の悲劇を風化させず、その記憶を次世代に語り継ぐことは、平和な未来を築く上で不可欠な私たちの使命です。

参考資料

  • 朝日新書『ルポ 戦争トラウマ』(一部抜粋・編集)